明治時代の日本海軍は、見えない敵に苦しんでいた。
戦場でも嵐でもなく、脚気(かっけ)という病が兵士たちを次々と倒していた。四肢のしびれ、浮腫(むくみ)、心不全——原因不明のまま、若い兵士が死んでいった。
この謎に挑んだのが、宮崎出身の海軍軍医高木兼寛(たかき かねひろ)だった。彼はロンドンで学んだ統計学的手法を武器に、脚気の原因を食事に求め、データで証明し、海軍から脚気を消し去った。
しかし同じ時代、陸軍は違う答えを信じていた——その選択が招いた悲劇とともに、高木が残した言葉「病気を診ずして病人を診よ」は今も生きている。
1. 脚気という謎の病——明治の「国民病」
脚気はビタミンB1(チアミン)の欠乏によって起こる疾患だ。末梢神経障害(手足のしびれ・脱力)と心臓障害(浮腫・心不全)を引き起こし、重症例では死に至る。
明治の日本では、脚気は深刻な社会問題だった。精白した白米を主食とする食文化の中で、白米はビタミンB1をほとんど含まない。農村では麦や雑穀も食べていたため比較的少なかったが、都市部や軍隊では白米偏重の食事が続き、脚気が多発した。
特に海軍での被害は甚大だった。長期の航海中、兵士たちは白米中心の食事を続け、出航してしばらくすると次々と脚気を発症した。乗員の3分の1以上が罹患することも珍しくなかった。
当時の医学界では、脚気の原因は諸説紛々だった。感染症説、伝染病説、気候の影響説——誰も「食事の欠乏」とは考えなかった。
2. 宮崎から世界へ——高木兼寛の軌跡
1849年、高木兼寛はペリー来航を直前に控えた江戸末期、薩摩藩領の日向国穆佐村白土坂(むかさむらしらすざか、現・宮崎市高岡町穆佐)に生まれた。薩摩藩の医師の家系に育った高木は、若くして西洋医学を志し、海軍軍医への道を歩んだ。
1875年(明治8年)、高木はイギリスのセント・トーマス病院医学校(St. Thomas’s Hospital Medical School)に留学した。ロンドンで5年間、彼は最先端の医学と統計学的手法を学んだ。
当時のイギリス医学は疫学的アプローチを重視していた。ジョン・スノウのコレラ地図(1854年)に代表されるように、患者のデータを集めてパターンを見つけ、介入の効果を数字で検証する——この思想が高木に深く根づいた。
1880年(明治13年)、帰国した高木は海軍医務局の要職に就き、脚気問題に本格的に取り組み始めた。
3. 龍驤号と筑波号——二つの航海が証明したもの
高木が着目したのは、脚気の「分布のパターン」だった。
海軍内のデータを分析すると、脚気は上官より下士官・水兵に多い。上官は食事の質が良く、白米以外のものも食べている。下士官・水兵は白米中心だ。
高木は仮説を立てた。「脚気は食事の問題ではないか。タンパク質や炭水化物のバランスの乱れが原因ではないか」——当時はビタミンという概念がなかったため、正確には「タンパク質欠乏」と考えた。しかしその着眼点は正しかった。
そして高木は対照実験を設計した。
1882〜83年(明治15〜16年)、軍艦・龍驤号が9ヶ月余の遠洋航海から帰港した。乗組員376名のうち脚気患者169名(罹患率45%)、死者25名という惨状だった。
高木はここで次の航海に食事改革を持ち込んだ。1884年(明治17年)、同じ航路に就いた軍艦・筑波号では、白米中心の食事に麦・肉・豆類・野菜を加え、栄養バランスを改善した。
結果は鮮明だった。
| 龍驤号(1882〜83年・従来食) | 筑波号(1884年・改良食) | |
|---|---|---|
| 乗員数 | 376名 | 333名 |
| 脚気患者数 | 169名(45%) | 14名(4%) |
| 死者数 | 25名 | 0名 |
データは語っていた。食事を変えれば脚気は防げる。高木の仮説は正しかった。
この結果を受け、高木は海軍全体の食事改革を推進した。麦飯の導入、副食の多様化——日清・日露戦争期には、海軍の脚気患者数はほぼゼロになった。
4. 陸軍との対立——森鴎外と27,000人の死
しかし日本全体で脚気が撲滅されたわけではなかった。
陸軍は高木の主張を受け入れなかった。
陸軍医務局の中枢で強い影響力を持っていたのが、後に文豪として知られる森鴎外(森林太郎)だった。ドイツに留学し、ドイツ医学(細菌学・感染症学)の最先端を学んできた森は、「脚気の原因は細菌による感染症だ」という立場をとり、高木の食事原因説を退けた。
これは単なる学説の対立ではなかった。ドイツ医学を至上とする陸軍と、イギリス医学の統計的手法をとる海軍(高木)の、医学的世界観をかけた衝突だった。
その代価は重かった。日露戦争(1904〜05年)において、陸軍の脚気による死者は約27,000人に達したとされる。戦闘による死者を上回る規模だ。海軍の脚気による死者は同期間でほぼゼロだった。
「なぜ効くか」のメカニズムを証明できなかった高木に対し、細菌説という「理論」を持つ陸軍が優位に立った——ゼンメルワイスが手洗いの効果を示しながら理論不在ゆえに拒絶されたのと同じ構造が、明治の日本でも繰り返された。
高木が正しかったことが科学的に確定したのは、彼の死後のことだった。1910年(明治43年)、鈴木梅太郎がビタミンB1の前身物質「オリザニン」を米ぬかから単離し、ビタミン欠乏症という概念が確立された。
5. 有志共立東京病院から慈恵医科大学へ——「すべての人に医療を」
脚気との戦いと並行して、高木はもう一つの大きな仕事に取り組んでいた。
1882年(明治15年)、高木は有志共立東京病院を設立した。「有志(志を持つ仲間)」が「共立(力を合わせて)」作った病院という名の通り、貧しい人々にも医療を届けることを目的とした施設だった。これが現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身にあたる。
1884年には附属の看護婦養成所が開設され、1887年には医学校が設立され、やがて今日の東京慈恵会医科大学へと発展した。
この大学が建学の精神として掲げる言葉が、高木兼寛に由来する。
「病気を診ずして病人を診よ」
診断名やプロトコルに先に注目するのではなく、まず「目の前にいる人間」を見ること。高木が脚気の研究で実践したのも、まさにこれだった。龍驤号の死者一人ひとりのデータを拾い、筑波号の乗員一人ひとりの変化を追った。病名ではなく「病人の生活と食事」を見たことが、発見につながった。
6. たすきがけ研修——高木の故郷・宮崎へ戻る医師たち
現在、東京慈恵会医科大学の医師研修プログラムには「たすきがけ研修」と呼ばれる仕組みがある。大学附属病院での研修に加えて、全国の地域中核病院での研修を組み合わせるプログラムだ。宮崎県内の病院もその対象に含まれており、東京の大学病院で学んだ若い医師たちが、高木の故郷・宮崎で研修を積む機会が生まれている。
医師の偏在が深刻な地方にとって、こうした研修プログラムは医療水準の維持に欠かせない。「すべての人に医療を」という高木の理念は、大都市の大学病院だけでなく地方病院にも医師を届けるという形で、現代に引き継がれている。
宮崎から東京へ渡り、ロンドンで医学を学び、日本海軍の食卓を変え、東京に病院と大学を作った男の遺産が、170年後に故郷の医療を支えている——歴史の連鎖は意外なところでつながっている。
まとめ:「なぜ」が分からなくても、「誰を診るか」は分かる
高木兼寛はビタミンB1を発見したわけではない。彼の時代に「ビタミン」という概念はなく、彼自身は「タンパク質バランス」の問題と考えていた。厳密な意味での原因解明は、後の世代に委ねられた。
しかし彼は「病人を見た」。龍驤号と筑波号のデータから、食事が変われば病気が消えるという事実を見た。メカニズムが分からなくても、介入が機能することを数字で示した。
ジョン・スノウがコレラ菌を知らずにポンプを止めたのと、ゼンメルワイスが細菌を知らずに手洗いで産褥熱を減らしたのと、壊血病の治療にレモン汁が効くと示されたのと——同じ構造だ。「なぜ効くか」が分からなくても、「誰を、どう見るか」が正しければ、人は救われる。
「病気を診ずして病人を診よ」——この言葉は、医学における観察の本質を突いている。診断名に隠れた人間を見ること。その視点が、明治の脚気という国民病を海軍から消し去り、日本初の慈善病院を生み、今日の地域医療へとつながる長い鎖の、最初の環にあった。

