92日間で糖尿病を倒した犬たち——バンティングとベスト、インスリン発見の物語

薬・感染症の歴史

1921年の夏、トロント大学の薄暗い実験室で、一人の外科医と一人の大学院生が犬の膵臓から何かを抽出しようとしていた。

外科医の名はフレデリック・バンティング(Frederick Banting)。31歳、田舎の開業医崩れで、研究者としての実績はゼロだった。大学院生の名はチャールズ・ベスト(Charles Best)。22歳、コインの裏表でこの実験に「当たった」助手だった。

彼らに与えられた時間は夏の間だけ。実験室は借り物で、犬は10頭。予算はほぼなかった。

その92日間が、糖尿病という「死の宣告」を変えた。


1. 糖尿病という死刑宣告——インスリン以前の世界

インスリンが発見される前、1型糖尿病(膵臓がインスリンをほとんど産生できない病態)の診断は事実上の死刑宣告だった。

糖尿病患者の体内では、血糖を細胞に取り込む「鍵」の役割を果たすインスリンが不足し、細胞はブドウ糖をエネルギーとして使えない。代わりに体は脂肪を分解し始め、ケトン体が蓄積してやがて糖尿病性ケトアシドーシスに陥る。意識障害、昏睡、死——発症から数週間から数ヶ月の経過だった。

当時の治療法として唯一効果があったのは「飢餓食(starvation diet)」だった。一日400〜500kcal以下に食事を制限し、血糖の上昇を抑える。糖尿病で死ぬ前に、飢えで死にそうになりながら生き延びる治療だ。患者は骨と皮だけの姿になりながら、医師の指示に従って食べることを制限し続けた。

「生かされているのか、殺されているのか分からない」——ある患者の言葉が記録に残っている。

膵臓の「ランゲルハンス島(islets of Langerhans)」という細胞群が血糖調節に関わるらしいことは19世紀末から知られていた。しかし膵臓の抽出液を作ろうとすると、消化酵素(外分泌)の作用でインスリン(内分泌)が分解されてしまう。誰もが挑戦し、誰もが失敗していた。


2. バンティングのアイデア——1920年10月31日の夜

1920年10月31日、カナダ・オンタリオ州の田舎町で開業医をしていたフレデリック・バンティングは、翌日の医学生向け講義の準備をしていた。

読んでいた論文に、こんな記述があった。「膵管を結紮すると、外分泌部(消化酵素を産生する部分)が萎縮し、内分泌部(ランゲルハンス島)は残る」。

バンティングはノートにメモした。「膵管を縛って外分泌を止めてしまえば、消化酵素に邪魔されずにランゲルハンス島の分泌物を取り出せるのではないか」

単純なアイデアだった。しかしそれを思いついた人間が、これまでいなかった。

バンティングはトロント大学のジョン・マクラウド(John Macleod)教授を訪ね、実験の許可を求めた。マクラウドは半信半疑だったが、夏の休暇中に実験室と犬10頭、そして助手一人を提供することを承諾した。助手はコインの裏表で選ばれた医学部学生で、それがチャールズ・ベストだった。


3. 92日間の実験——犬たちと格闘した夏

1921年5月17日、バンティングとベストはトロントの実験室で実験を開始した。

まず犬の膵管を外科的に結紮した。数週間後、外分泌部が萎縮してランゲルハンス島だけが残った膵臓を摘出し、塩水で抽出液を作る。この抽出液を「アイレチン(isletin)」と名付けた。

次に別の犬の膵臓を完全に摘出して糖尿病状態を作り、血糖値を測定しながらアイレチンを注射した。

1921年7月27日、糖尿病犬に注射したアイレチンが血糖値を下げた。

実験の成功だった。バンティングとベストは小躍りしたという。

しかし夏の実験室は劣悪だった。犬たちは次々と死に、抽出液の純度も安定しなかった。試行錯誤の末、彼らは膵臓の代わりに牛の胎児の膵臓を使うことで、安定した量の抽出液を得ることに成功した。胎児の段階では外分泌機能がまだ発達していないため、消化酵素による分解が起きにくかったのだ。

夏の終わり、マクラウドが休暇から戻り、結果を見て実験の継続を認めた。生化学者ジェームズ・コリップ(James Collip)が加わり、抽出液の精製に取り組んだ。


4. レナード・トンプソンの奇跡——14歳の少年が蘇った

1922年1月11日、トロント総合病院に一人の少年が入院していた。レナード・トンプソン(Leonard Thompson)、14歳。体重は29kg。糖尿病の発症から2年、飢餓食で生き延びてきたが、死は目前だった。

この日、バンティングらの抽出液が初めて人間に注射された。

しかし結果は失敗だった。注射部位に重篤な炎症反応が起き、血糖値も十分に下がらなかった。抽出液に含まれる不純物が原因だった。

コリップが急いで精製を改良した。12日後の1月23日、精製された抽出液をレナードに再注射した。

血糖値が正常域まで低下し、ケトン体が消え、少年の意識が戻った。

臨床スタッフは「奇跡のようだった」と記録している。数週間後、レナードは病院の廊下を歩いていた。入院直前には歩くことすら困難だった少年が。

この知らせはすぐに広まった。世界中から糖尿病患者とその家族が、インスリンを求めてトロントに押し寄せた。

年月日出来事
1920年10月31日バンティング、アイデアをノートに記す
1921年5月17日バンティング・ベスト、実験開始
1921年7月27日糖尿病犬への投与で血糖低下を確認
1922年1月11日レナード・トンプソンへの初回投与(失敗)
1922年1月23日精製液の投与成功——世界初の臨床的インスリン治療
1923年バンティング・マクラウド、ノーベル生理学・医学賞受賞
1923年イーライリリー社との協力で大量生産が始まる

5. ノーベル賞と怒り——功績をめぐる確執

1923年、ノーベル生理学・医学賞はバンティングとマクラウドに授与された。

バンティングは激怒した。「マクラウドは夏の間いなかった。功績はベストにあるのに、なぜベストではなくマクラウドが受賞するのか」。バンティングは賞金の半分をベストに贈った。マクラウドはコリップに賞金の半分を贈った。

マクラウドへの怒りは一面では不当だった——実験室の提供、研究の継続許可、国際学会での発表支援、コリップの招聘、イーライリリー社との大量生産交渉など、マクラウドの貢献は実際には大きかった。しかし「夏の間いなかった上司」が受賞したことへの感情的な反発は、バンティングの生涯消えなかった。

トロント大学はインスリン特許を1ドルで売り、ロイヤリティなしで製造を許可した。「インスリンは人類のものであり、特定の会社が独占すべきでない」という判断だった。


6. インスリンのその後——生命を変え続ける100年

インスリンの発見から100年以上が経ち、技術は劇的に進化した。

当初のインスリンは豚や牛の膵臓から抽出したものだったが、1982年には遺伝子組み換え技術によって人間のインスリンと同一のアミノ酸配列を持つ「ヒトインスリン」が製造されるようになった。

さらに作用時間を調整した「超速効型」「持効型」などが開発され、血糖管理の精度は向上し続けている。持続血糖モニター(CGM)と自動インスリン注入器を組み合わせた「人工膵臓」システムも実用化されつつある。

しかし根本的な問題は残っている。インスリンの価格だ。アメリカでは一部のインスリン製品が年間1万ドルを超えることがあり、保険がなければ糖尿病患者が薬を買えない事態が社会問題となっている。バンティングが1ドルで手放した特許の「精神」は、現代の医薬品市場には引き継がれなかった。


まとめ:「当たり」を引いた大学院生と、正しい問いを立てた外科医

バンティングは研究者としての訓練をほとんど受けていなかった。ベストはコインの裏表で選ばれた助手だった。実験は借り物の実験室で、夏の間だけ、10頭の犬で行われた。

それでも発見は起きた。

なぜか。バンティングは「正しい問い」を立てたからだ。「外分泌を消化酵素ごと止めてしまえば、内分泌だけが残る」——この発想は、以前から知られていた知識を別の角度から繋いだものだった。

新しい知識は必ずしも必要ない。既存の知識を「違う順序で並べ直す」だけで、扉が開くことがある。糖尿病で骨と皮になっていた少年が病院の廊下を歩いた1922年1月——その瞬間は、正しい問いを立てることの力を示している。

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