「治す」から「生きる」へ——リハビリテーション医学はいつ生まれたか
「リハビリ」という言葉は今や日常語だ。
骨折した高齢者が歩行訓練をする。脳卒中の後遺症で半身が動かなくなった患者が、言語訓練と理学療法を受ける。スポーツ選手が術後に復帰訓練をする——これらすべてが「リハビリテーション」という言葉で括られる。
しかし、こうした体系的な医療行為が「リハビリテーション医学」という独立した専門領域として確立されたのは、20世紀のことだ。それも、戦争という巨大な外力によって生まれた。
医学は長い歴史の中で「病気を治す」ことに特化してきた。「治した後、その人がどう生きるか」を扱う医学が生まれるには、近代という時代背景が必要だった。
1. 「リハビリテーション」という言葉の起源
「rehabilitation」は中世ラテン語の「rehabilitare」に由来し、もともとは法律用語だった——名誉や権利の「回復」を意味した。
医学的な文脈でこの言葉が使われるようになったのは1940年代のことで、Oxford English Dictionary によれば医療領域への適用は1940年頃とされる。
語源的に「re(再び)」「habilis(能力のある)」——すなわち「能力を取り戻すこと」。手術で腫瘍を切除した後、傷が癒えたら終わりではなく、「その人が再び社会の中で機能すること」まで含む、という発想がここに込められている。
この発想はシンプルに見えて、当時の医学には革命的だった。
2. 第一次世界大戦——近代リハビリの「前史」
20世紀前半、リハビリテーション医学の芽が最初に育ったのは戦場だった。
第一次世界大戦(1914–1918)では、近代兵器の登場によって戦傷の様相が変わった。銃弾、砲弾、毒ガス——かつてなら命を奪っていた損傷から生存する兵士が増えた一方、四肢切断・脊髄損傷・視覚障害という後遺症を抱えた帰還兵が大量に発生した。
アメリカは1917年、陸軍に「リコンストラクション・エイド(Reconstruction Aides)」という職種を設けた。理学療法士と作業療法士の前身にあたる専門職であり、その多くが女性だった。彼女たちは四肢を失った兵士の筋力回復と、日常生活動作の訓練に当たった。
1918年にはスミス=シアーズ法(Smith-Sears Act)が成立し、傷痍軍人への職業訓練と社会復帰支援が国家的な義務として明文化された。
メアリー・マクミラン(Mary McMillan, 1880–1959)はこの時代の中心的人物だ。アメリカ初の理学療法士の一人とされ、1921年にはアメリカ理学療法士協会(APTA)の前身となる組織の初代会長に就任した。彼女の著書 Massage and Therapeutic Exercise(1921)は、当時の運動療法の基礎テキストとなった。
ただしこの段階では、「リハビリテーション医学」はまだ独立した医学専門領域ではなかった。理学療法と作業療法は「医師の指示の下で行われる補助的な処置」という位置づけに留まっていた。
3. ポリオとフランクリン・ルーズベルト——市民社会を動かした疾患
第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、リハビリテーション医学を市民社会に根付かせた疾患があった——ポリオ(脊髄性小児麻痺)だ。
1921年、39歳のフランクリン・ルーズベルト(後の第32代大統領)が急性の弛緩性麻痺を発症し、下半身に永続的な麻痺が残った。当時の診断は「ポリオ」とされたが、この診断には後年、異論が生じている。
診断論争:2003年、Armond Goldman らが Journal of Medical Biography に発表した論文は、ルーズベルトの診断を「ギラン・バレー症候群(GBS)だった可能性が高い」と主張した。根拠は、発症時の年齢(39歳——ポリオは小児に多く「小児麻痺」とも呼ばれる)、麻痺の上行性パターン、膀胱・腸管機能の障害、顔面神経への影響、そして回復と後遺症のパターンがGBSの臨床像に合致する点だ。一方、伝統的なポリオ説を支持する研究者もおり、診断は確定していない。いずれにせよ、当時の医学ではウイルス学的確認の手段がなく、「ポリオ」は臨床診断に過ぎなかった。
この診断の真偽がどちらであれ、ルーズベルトが四肢麻痺の後遺症を抱えながらアメリカ大統領として活動したという事実は変わらない。この一事が、アメリカにおけるリハビリテーション支援の歴史を変えた。
ルーズベルトは1927年、ジョージア州ウォームスプリングスに「ウォームスプリングス財団」を設立した。温泉プールでの水中運動によるポリオ後遺症のリハビリを組織的に行った施設で、全国から患者が集まった。大統領になった後も、ルーズベルトはここを訪れ続けた(1945年4月、ウォームスプリングスで脳卒中により死去した)。
ルーズベルト自身は公の場で車椅子姿をほぼ見せなかった——政治的なイメージを守るためだった——しかし彼の存在は、「障害を持ちながら社会の最前線にいる」という事実を通じて、リハビリ医療への社会的な関心を高めた。
同時代に革新的なアプローチを持ち込んだのが、オーストラリアの看護師エリザベス・ケニー(Sister Kenny, 1880–1952)だ。当時の主流だったポリオ患者の「肢体固定療法」に異議を唱え、罹患した筋肉を温湿布で温め、積極的に動かす運動療法を実践した。当初は医学会から強く批判されたが、実績が積み重なるにつれ、その有効性が認められていった。
ケニーの方法は現代の理学療法の基本——「固定よりも動かす」「廃用性萎縮を防ぐ」——を先取りしていた。
4. 第二次世界大戦——ハワード・ラスクと「全人的リハビリ」
リハビリテーションが独立した医学専門領域として確立されたのは、第二次世界大戦だった。
ハワード・ラスク(Howard A. Rusk, 1901–1989)は、内科医としてミズーリ州の病院に勤務していた。1942年、陸軍に召集されてジェファーソン・バラックス空軍基地に赴任した彼は、そこで重大な問題に気づく。
負傷から回復した兵士たちが、病院のベッドに寝かされたまま何もせずに過ごしている——「回復後の空白」だ。手術は成功した。感染症も治まった。しかし退院できるほど回復するまでの数週間、兵士たちは床に伏して体力を失い続けた。
ラスクは上官を説得し、回復期の兵士に対して段階的な運動プログラム、教育、職業訓練、心理的サポートを組み合わせたプログラムを導入した。結果は劇的だった——同じ負傷の兵士を、従来より早く、より高い機能状態で復帰させることができた。
1946年、ラスクはニューヨーク大学医学部(NYU)にリハビリテーション医学科を創設した。これが世界最初の大学附属リハビリテーション医学科とされる。1951年には「ラスク・インスティテュート(Rusk Institute of Rehabilitation Medicine)」が開設され、国際的なリハビリ医学の中心となった。
ラスクがとりわけ強調したのは「全人的リハビリテーション(whole-person rehabilitation)」という概念だった。身体機能の回復だけでなく、心理的な適応、家族との関係、職業への復帰、社会参加まで——人間の生活全体を対象にすることが「リハビリテーション」だという考え方だ。
「医師の仕事は、患者が病院を出た後の人生まで考えることだ」——ラスクはそう言い続けた。
5. フランク・クルーゼンと「物理医学」——もう一つの源流
ラスクと並んで、リハビリテーション医学の制度的確立に貢献したのがフランク・クルーゼン(Frank Krusen, 1898–1973)だ。
クルーゼンはラスクとは異なる系譜から来ている。物理的なエネルギー(熱・光・電気・運動)を医療に応用する「物理医学(Physical Medicine)」という分野を体系化した人物だ。1935年、メイヨークリニックに物理医学科を設立し、1941年には Physical Medicine: The Employment of Physical Agents for Diagnosis and Therapy という体系的な教科書を著した。
ラスクの「全人的リハビリ」とクルーゼンの「物理医学」は、1950年代以降に統合されていく。アメリカでは1947年に理学・リハビリテーション医学専門医制度(ABPMR)が設立され、物理医学とリハビリテーション医学が一つの専門領域として正式に認定された。
6. 日本のリハビリテーション医学——1965年の法制化
日本における制度化は、少し遅れた。
1963年、日本リハビリテーション医学会(JARM)が設立された。整形外科医・神経内科医・内科医らが参加した学際的な学会で、翌年には専門誌が創刊された。
転換点は1965年の理学療法士・作業療法士法の制定だ。この法律によって、PT(理学療法士)とOT(作業療法士)が正式な国家資格となった。それまで「補助的処置」として曖昧な地位に置かれていた専門職が、法的な裏付けを持つこととなった。
リハビリテーション科が診療科として標榜できるようになったのは1996年のことだ。医師の専門領域として社会的に認知されるまでに、西洋での発展からさらに数十年を要した。
7. ICIDHからICFへ——「障害」の定義が変わった
リハビリテーション医学のもう一つの革新は、「障害」そのものの概念転換だ。
1980年、世界保健機関(WHO)はICIDH(国際障害分類)を発表した。「機能障害→能力障害→社会的不利」という三層モデルで障害を定義したこの分類は画期的だったが、「障害はその人の内側にある問題だ」という発想を内包していた。
2001年、WHOはこれを改訂してICF(国際生活機能分類)を発表した。ICFの根本的な転換は、「障害は身体と環境の相互作用の結果だ」という視点だ。車椅子利用者が建物に入れないのは、「その人の問題」ではなく「スロープのない建物の問題」でもある——この発想は、その後のバリアフリー政策やユニバーサルデザインの概念的基盤となった。
リハビリテーション医学は、患者の機能を回復させるだけでなく、環境を変えることで「障害」そのものをなくすという方向を内包するようになった。
まとめ:「治した後」を医学にした人たち
リハビリテーション医学の誕生は、戦争によって強制的に加速された。
第一次世界大戦の帰還兵、ポリオの流行、第二次世界大戦の大量傷痍軍人——「治療後に残された人々」という問題に向き合い続けた医師たちが、「治す医学」の隣に「生きる医学」を作り上げた。
ハワード・ラスクの言葉が象徴的だ——「私たちは失われたものを数えるのではなく、残されたものを最大限に活かすことを学ばなければならない」(A World to Care For, 1972)。
「治す」から「生きる」へ。その転換は、医学の歴史の中で見れば非常に新しい。しかし今では、リハビリテーション医学なしに現代医療は成立しない。
筆者注
整形外科医として手術を執刀する立場から言うと、「手術は始まりにすぎない」という感覚は強くある。人工関節置換術をどれだけ丁寧に行っても、その後の歩行訓練・筋力強化・ADL(日常生活動作)指導がなければ、患者の生活の質は上がらない。手術室での30分と、その後の数カ月のリハビリがセットで初めて「治療」と呼べる。
私自身がリハビリテーション科専門医でもあるのは、そういう理由からだ。整形外科手術とリハビリは分けて考えるものではなく、一続きのプロセスだという確信がある。
現代の医学教育では手術技術と薬物療法に多くの時間が割かれるが、「術後の患者をどう機能させるか」という教育はまだ薄い領域だと感じる。ラスクが1940年代に気づいた「回復後の空白」は、形を変えながらまだどこかに残っている。
参考資料
- Rusk, H.A. (1972). *A World to Care For*. Random House.
- Krusen, F.H. (1941). *Physical Medicine*. W.B. Saunders.
- McMillan, M. (1921). *Massage and Therapeutic Exercise*. W.B. Saunders.
- World Health Organization (2001). *International Classification of Functioning, Disability and Health (ICF)*. WHO Press.
- DeLisa, J.A. et al. (2005). *Physical Medicine and Rehabilitation: Principles and Practice* (4th ed.). Lippincott Williams & Wilkins.
- 日本リハビリテーション医学会(2023)「リハビリテーション医学・医療の歴史」公式サイト.
⚠️ 免責事項:本記事は医学史・医療史の教育・情報提供を目的としたものであり、特定の疾患の診断・治療・予防を目的とした医療アドバイスではありません。健康上の問題については、必ず医師・医療機関にご相談ください。

