壊血病と大航海——なぜヨーロッパの船乗りは死に続け、鄭和の船団は7度の遠征を達成できたのか

薬・感染症の歴史

壊血病と大航海——なぜヨーロッパの船乗りは死に続け、鄭和の船団は7度の遠征を達成できたのか

対象キーワード: 壊血病 歴史 / 鄭和 大航海 / ビタミンC 発見 歴史 / ヴァスコ・ダ・ガマ 壊血病 / ジェームズ・リンド 壊血病実験 想定文字数: 約4,800字 カテゴリ: 薬・感染症の歴史


1497年、ポルトガル王国の艦隊がリスボンを出港した。指揮官はヴァスコ・ダ・ガマ、目的地はインド。乗組員は170人だった。

1499年、インドからの帰路を経て帰港したとき、生きて戻ったのは54〜55人だった。116人が死んでいた。その多くを殺したのは、戦闘でも嵐でもなく——歯茎から血が滲み、関節が腫れ、衰弱して死に至る奇妙な病だった。

同じ時代、明朝の鄭和は最大2万7千人を乗せた大船団で、アフリカ東岸まで7度の遠征を繰り返した。

なぜこれほどの差が生まれたのか。その問いに答えるには、「壊血病」というビタミン欠乏症と、食事という文明の差異を理解する必要がある。


1. 壊血病の正体——「謎の死病」の300年

壊血病(scurvy)は、ビタミンC(アスコルビン酸)の欠乏によって引き起こされる疾患だ。

ビタミンCはコラーゲン合成に不可欠な補酵素だ。これが不足すると、全身の結合組織が崩壊していく。歯茎が腫れて出血する、古い傷が再び開く、関節が痛んで動かせなくなる、精神的な抑うつが現れる——そして治療しなければ死に至る。

ビタミンCを一切摂らない場合、症状は4〜12週間で現れ始める。長い航海で野菜や果物が底をついてから数週間——それが壊血病のタイムラインだ。

問題は、18世紀まで誰も「なぜ起きるか」を知らなかったことだ。「悪い空気のせい」「怠惰のせい」「精神的な弱さのせい」と考えられていた。患者たちは自分を殺しているものが、レモン一個で防げる欠乏症だとは、夢にも思わなかった。


2. ヨーロッパの惨劇——塩漬け肉とビスケットの食卓

大航海時代のヨーロッパの船上食は、構造的にビタミンCを欠いていた。

主食はハードタック(hardtack)——小麦粉と水と塩で作った硬いビスケットで、腐りにくいが栄養は乏しい。タンパク質は塩漬け牛肉や豚肉——塩漬けと長期保存の過程でビタミンCは完全に失われる。乾燥豆類も積んだが、収穫・乾燥・長期保存を経た後では残存するビタミンCはほぼゼロに近い。

インド洋の開拓者たちが「長い航海」を始めた15世紀末から16世紀、その食卓はビタミンCを組み込む余地がなかった。

ヴァスコ・ダ・ガマの第一次航海(1497〜99年)で失われた116人の多くが壊血病で死んだ。フェルディナンド・マゼランの世界一周航海(1519〜22年)でも、太平洋横断中に乗組員が次々と壊血病で倒れた記録が残る。「壊血病は航海の税だ」——そんな言葉すら生まれた時代だった。


3. 鄭和の大船団——その規模と食料管理

1405年、明朝の鄭和(1371〜1433年)は永楽帝の命を受けて第一次遠征に出発した。

その規模は空前だった。約250〜300隻の船、2万7千人以上の乗組員。艦隊はインド、ペルシャ湾、アラビア、そして東アフリカのケニア・ソマリア沿岸まで到達した。7度の遠征は1433年まで続いた。

「宝船(bǎochuán)」と呼ばれた旗艦の大きさについては諸説あり、明代の記録には44丈(約135〜140メートル)という数字が残っているが、多くの研究者はこれを実際の船体ではなく象徴的な数値か誇張と見ている。構造工学的な分析からは、当時の木造技術で安全に建造できる上限は60〜90メートル程度と考えられており、宝船の実際の大きさについては今も議論が続いている。

いずれにせよ、この艦隊には当時のヨーロッパ船にはない「積み込む余裕」があった。


4. 中国の船上食——生き物と発酵食品

鄭和の艦隊の食料管理について、乗組員の一人だった馬歓(Ma Huan)が著した航海記録『瀛涯勝覧』(1451年)に断片的な記述が残っている。

艦隊は豚・鶏・ヤギなどの生きた家畜を積み込んだ。「動く食料」だ。屠殺直前まで生かしておくことで、新鮮な肉を提供できる。肉に含まれるビタミンCは少ないが、動物の臓器(特に肝臓)には一定量が含まれる。

また、船上で豆を発芽させてモヤシを栽培した可能性を示唆する記述も一部に伝わっている。発芽した豆(モヤシ)はビタミンCを豊富に含む——大豆モヤシ100gあたり約4〜6mgのビタミンCが含まれる。乾燥大豆にはほぼ存在しない成分が、発芽によって生成されるのだ。

さらに中国の食文化には漬物・塩漬け野菜の伝統がある。乳酸発酵による酸性環境はビタミンCの酸化を抑制し、適切に発酵された野菜は新鮮なものに匹敵するビタミンC量を保つことが現代の研究で確認されている。

ただし一点、重要な留保を記しておく。「鄭和の水兵が壊血病を免れた」ことを直接証明する中国側の医療記録は残っていない。

航海記録は外交成果や珍奇な産物の記述が中心であり、船上の疾病状況を系統的に記録したものではない。1477年の明の上奏文には「遠征によって命を失った者は数万に及ぶ」という記述があり、総体としての犠牲は小さくなかった。「中国水兵は壊血病にかからなかった」というのは、あくまでも食文化と航行パターンから導かれる推論であり、直接的な証拠ではない。


5. もう一つの要因——「寄港頻度」という決定的差

食料だけでなく、航行パターンの違いも重要だ。

鄭和の艦隊は基本的に沿岸を伝い、頻繁に港に寄った。東南アジア・インド・アラビアの各港で食料を補給し、新鮮な野菜や果物を積み込む機会があった。航行と停泊を繰り返すスタイルは、ビタミンCの補給サイクルを維持しやすかった。

一方、ヴァスコ・ダ・ガマのアフリカ南端回りの航路は、陸地から遠く離れた大洋を長期間航行する区間があった。マゼランが太平洋を横断した98日間は補給の機会がほぼなく、これが壊血病の大量発生を招いた。

「何を食べるか」と同じくらい「いつ陸に着くか」が命を分けた。


6. ジェームズ・リンドの実験——1747年、謎が解けた日

壊血病の原因が科学的に解明されたのは18世紀になってからだ。

1747年、イギリス海軍の軍医ジェームズ・リンド(James Lind)はHMSソールズベリー号で臨床試験を行った。壊血病の患者12人を6組に分け、異なる食品(シードル、希硫酸、酢、海水、オレンジとレモン、大根の調合液)を与えた。

結果は明確だった。オレンジとレモンを与えられた組だけが、6日以内に著しく回復した。

リンドは1753年に『壊血病論(A Treatise of the Scurvy)』を出版してこの結果を発表した。しかしイギリス海軍が柑橘類の配給を公式に義務化したのは、それから42年後の1795年だった。科学的証明から制度化まで、半世紀近くかかったのだ。

なぜこれほど遅れたのか——コスト・輸送・保管の問題に加え、「海軍の伝統」と「専門家への不信」が変化を妨げた。制度が人を救うとき、その制度を作るまでにどれほどの時間がかかるか——これは救急救命士法の話でも繰り返されてきたテーマだ。

ちなみに、壊血病の原因物質がビタミンCとして化学的に同定されたのは、リンドの試験から180年後、1932年のことだった。アルバート・セント゠ジェルジとチャールズ・キングが独立してアスコルビン酸を単離・同定し、セント゠ジェルジは1937年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。


まとめ:食文化と制度が命を分けた

鄭和の大船団が7度の遠征を達成できた理由の一つは、生鮮食料・発酵食品・モヤシ栽培という食文化の蓄積と、沿岸を伝う頻繁な補給にあったと考えられる。ただしそれは「中国医学が壊血病を理解していたから」ではない。理解なき予防——食習慣が偶然ビタミンCを供給し続けていたのだ。

一方のヨーロッパは、塩漬け肉とビスケットという食文化の限界に縛られ、リンドの証明から制度化まで半世紀を費やした。

「知ること」と「制度に落とし込むこと」の間には、常に巨大な距離がある。その距離の中で、数えきれないほどの人間が死んでいった。


筆者注

本文で「鄭和の艦隊は沿岸を伝って航行した」と書いたが、その理由の一つとして船の構造上の特性も関係しているかもしれない、とふと思った。

ヨーロッパの帆船には船底から深く突き出た竜骨(キール)があり、これが横流れを防ぎ、風上に向かって帆走する能力を与えていた。一方、中国のジャンク船には龍骨(longgu)と呼ばれる縦方向の構造材はあるものの、ヨーロッパ式の深く突き出たフィン型の竜骨は持たなかった。横流れへの抵抗は、センターボードや大型の舵でカバーしていた。

この設計の違いは、ヨーロッパ船が「風に対して斜めに進む」のが得意だったのに対し、中国のジャンクは「風を受けて走る」ことに最適化されていたことを意味する。インド洋のモンスーン——冬は北東、夏は南西と向きが入れ替わる季節風——を利用した往復航路は、この船の特性と見事に合致していた。

ただし調べてみると、鄭和の艦隊はセイロン島やアラビア海を直接横断する外洋航行も実施しており、「竜骨がないから沿岸しか航れなかった」は正確ではない。主な理由はやはり季節風の利用と寄港地での外交・補給という戦略的判断だったようだ。船の構造は航路選択を「制約した」というより、モンスーン航法と「相性がよかった」というのが実態に近い。

余談だが、中国の水密隔壁(watertight bulkhead)は船体を複数の区画に分けて一部が浸水しても沈まない構造で、イギリス海軍が同じ技術を採用したのは18世紀末——中国の600年後だったとされている。「竜骨のないジャンクは外洋に弱い」という単純な話ではなく、異なる哲学で設計された船が、それぞれの海域と航法に適応していたのだと思う。


参考資料

  • Lind, J. (1753). A Treatise of the Scurvy. Sands, Murray and Cochran, Edinburgh.
  • Mills, J.V.G. (trans.) (1970). Ma Huan: Ying-yai Sheng-lan, The Overall Survey of the Ocean’s Shores. Cambridge University Press.
  • Mostert, T. (2007). “Chain of Command: The Military System of the Yongle Emperor and the Voyages of Zheng He.” Ming Studies, 2007(1), 21–77.
  • Baron, J.H. (2009). “Sailors’ scurvy before and after James Lind — a reassessment.” Nutrition Reviews, 67(6), 315–332.

⚠️ 免責事項:本記事は医学史・医療史の教育・情報提供を目的としたものであり、特定の疾患の診断・治療・予防を目的とした医療アドバイスではありません。健康上の問題については、必ず医師・医療機関にご相談ください。

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