ソーセージの皮で腎臓を作った男——人工透析、戦火が生んだ命の機械
1943年、ナチス・ドイツ占領下のオランダ・カンペン。
一人の若い内科医が、奇妙な機械を組み立てていた。回転する木製のドラムに、巻きつけられているのはソーセージの皮——食品用のセロファン製ケーシングだ。戦時下で医療物資が不足する中、彼は身の回りにある日用品をかき集めて、人類初の実用的な「人工腎臓」を作ろうとしていた。
医師の名はウィレム・コルフ(Willem Kolff)。32歳。彼が作ろうとしていたのは、壊れた腎臓の代わりに血液から老廃物を取り除く機械だった。
腎臓が止まれば、人は数日で死ぬ。体内に尿毒素が溜まり、全身が侵されていく。当時、急性腎不全は「待つしかない死」だった。コルフはそれに抗おうとしていた。
1. すべては「ふるい」の原理から——トーマス・グレアムの発見
人工透析の根っこにあるのは、19世紀の化学だ。
スコットランドの化学者トーマス・グレアム(Thomas Graham, 1805–1869)は、1850年代から1861年にかけて、半透膜を通して物質を分離する現象を研究した。小さな分子(結晶質)は膜を通り抜け、大きな分子(コロイド)は通れない——この選択的な「ふるい」の働きを、彼は「ダイアリシス(dialysis、透析)」と名づけた。グレアムは「透析の父」と呼ばれる。
ただしグレアムにとって、これは純粋な化学現象の研究だった。これが医療に応用されるとは、本人も想像していなかっただろう。
2. 最初の挑戦——犬の血液からヒトへ
透析を医療に持ち込もうとする試みは20世紀初頭に始まった。
1913年、アメリカ・ジョンズ・ホプキンス大学のジョン・ジェイコブ・アベル(John Jacob Abel)らは、生きた動物の血液から物質を取り除く装置「ヴィヴィディフュージョン(vividiffusion)」を作った。コロジオン製のチューブと、ヒルから採った抗凝固物質(ヒルジン)を使った実験で、対象は犬やウサギだった。当時のロンドン・タイムズ紙はこの装置を「人工腎臓(artificial kidney)」と呼んだ。
ヒトへの最初の血液透析は、1924年10月、ドイツ・ギーセンのゲオルク・ハース(Georg Haas)によって行われた。約15分間の短い処置だった。ハースは1928年までウレミア(尿毒症)患者への透析を試み、ヘパリンの使用も導入したが、治療は短時間にとどまり、患者を救命するには至らなかった。
原理は分かっていた。膜も、抗凝固薬も、装置もあった。だが「実際に患者を救う機械」には、まだ誰も到達していなかった。
3. 占領下の発明——コルフの回転ドラム
その壁を破ったのが、ウィレム・コルフだった。
コルフが透析の研究を始めたきっかけは、一人の若い患者の死だったと言われる。腎不全でゆっくりと死んでいく患者を前に、何もできない無力感が彼を動かした。「血液から毒素を取り除けさえすれば、腎臓が回復するまでの時間を稼げるはずだ」。
彼が設計したのは回転ドラム型透析器だ。セロファン(ソーセージケーシング)のチューブに患者の血液を流し、それを透析液を満たしたタンクの中で回転するドラムに巻きつける。血液中の老廃物が膜を通って透析液側へ移動し、きれいになった血液が体に戻る——グレアムの「ふるい」の原理そのものだった。
特筆すべきは、これがナチス占領下という極限状況で作られたことだ。物資不足の中、コルフは入手可能な日用品や工業部品を組み合わせて機械を完成させた(使われた部材の細部は記録によって異同があるが、膜にセロファンを用い、ありあわせの材料で構成された点は共通している)。最先端の医療機器が、占領下の町工場のような環境から生まれたのだ。
4. 16人目の奇跡——そして患者はナチ協力者だった
しかし、現実は厳しかった。
コルフが最初に透析を施した患者たちは、次々と亡くなっていった。最初のおよそ15人は救えなかった。技術は未熟で、適応の判断も手探りだった。
転機は終戦直後の1945年9月11日に訪れた。急性腎不全で昏睡状態に陥っていた67歳の女性——記録によって綴りに異同があるがゾフィア・シャフスタット(Sofia Schafstadt)と伝えられる——に透析を行ったところ、彼女は意識を取り戻し、やがて腎機能も回復した。透析によって明確に命を救われた、最初の患者だった。
皮肉な逸話が残っている。この女性はナチスへの協力者だったとされる。占領に苦しんだオランダで、医師コルフは「敵に与した人物」をも救った。そして意識を取り戻した彼女が最初に口にしたのは、夫と別れたいという言葉だったと伝えられる。命を救う技術は、救う相手を選ばない——医療の本質を象徴するエピソードとして、しばしば語られる。
5. 惜しみなく与えた男——技術の世界的拡散
コルフの行動で、もう一つ特筆すべきことがある。
彼は人工腎臓の設計を特許で囲い込まず、世界に無償で分け与えた。終戦後、彼は自作の透析装置を各国に送り、設計図を公開した。利益のための独占ではなく、「一人でも多くの患者を救う」ことを優先したのだ。
1950年、コルフはアメリカに渡り、クリーブランド・クリニックに加わった。彼の回転ドラム型透析器は改良を重ねられ、急性腎不全の治療法として世界に広まっていった。
6. 「毎回血管を切る」問題——クイントン=スクリブナー・シャント
しかし、透析にはもう一つ大きな壁があった。血管へのアクセスだ。
透析のたびに動脈と静脈に針を刺す必要があるが、当時は処置のたびに血管を外科的に切開し、使い終わると縛って閉じていた。血管は使うたびに傷み、数回で使い尽くされてしまう。これでは急性腎不全の一時的な救命はできても、慢性腎不全の患者を継続的に透析することは不可能だった。
この問題を解いたのが、1960年3月、シアトルのワシントン大学のベルディング・スクリブナー(Belding Scribner)と、エンジニアのウェイン・クイントン(Wayne Quinton)だった。彼らはテフロン製のカニューレを動脈と静脈にそれぞれ挿入し、皮膚から体外に出した両端をU字型の管で接続する「外シャント(Quinton–Scribner shunt)」を開発した。透析をしない間は体外のループで血液を循環させて血栓による閉塞を防ぎ、透析時にはそのループを外して装置につなぐ。これにより、毎回血管を切開することなく、繰り返し血管路を確保できるようになった。最初の患者クライド・シールズは、これによって透析で生き延びた一人となった。
ただし、管が体外に露出するこの「外シャント」は、感染・閉塞・抜去といった合併症が多かった。1966年、ブレシアとチミノ(Brescia & Cimino)が皮下で動脈と静脈を直接吻合する「内シャント(動静脈瘻)」を発表すると、より安全で長持ちするこの方式が標準となり、外シャントに取って代わった。現在の透析患者で「シャント」といえば、通常この内シャント(あるいは人工血管グラフト)を指す——スクリブナーの外シャントは、維持透析を切り開いた歴史的な出発点だった。
こうして維持透析の扉が開いた。だが、それは新たな倫理問題を生むことになる。
7. 「神の委員会」——誰を生かすかを決めた人々
シャントによって維持透析が可能になった——しかし、透析装置の数は限られていた。
1960年代初頭のシアトル。透析を受ければ助かる患者は大勢いるのに、機械は数台しかない。「誰に透析を受けさせ、誰を諦めるか」を決めなければならなかった。
その判断を委ねられたのが、スウェーデン病院(Seattle Artificial Kidney Center)に設けられた、医師と一般市民からなる匿名の委員会だった。彼らは患者の年齢・職業・家族構成・社会的貢献などをもとに、文字通り「誰が生きるか」を選別した。
1962年11月9日、ジャーナリストのシャナ・アレクサンダーがこの委員会を Life 誌で報じると、社会は衝撃を受けた。人が人の生死を選別してよいのか——この委員会は「神の委員会(God Committee)」と呼ばれ、激しい議論を呼んだ。
この出来事は、インフォームドコンセントや患者の権利と並んで、現代の生命倫理(バイオエシックス)が生まれる大きなきっかけの一つになった。「技術は救命を可能にした。では、限られた資源を誰にどう配分するのか」——透析が突きつけたこの問いは、今日の医療資源配分の議論にそのままつながっている。
まとめ:日用品から始まった、命をつなぐ技術
ソーセージの皮の透析器から今日まで——約80年。
人工透析の歴史は、いくつもの「壁」を越える物語だった。グレアムが原理を見出し、ハースがヒトに試み、コルフが占領下で実用機を作り、スクリブナーとクイントンが維持透析を可能にし、そして「神の委員会」が医療資源配分という新しい問いを社会に投げかけた。
現在、世界中で何百万人もの患者が透析によって生き続けている。日本だけでも約34万人が透析を受けている。その原点に、戦火の中でソーセージの皮を巻きつけていた一人の医師がいたことを、知っておく価値はあると思う。
⚠️ 免責事項:本記事は医学史・医療史の教育・情報提供を目的としたものであり、特定の治療法・薬剤・医療行為を推奨するものではありません。個別の医療上の判断については、必ず担当の医療機関にご相談ください。
筆者注
整形外科医として、透析患者の手術に関わる機会は少なくない。長期透析を受けている患者は、骨や関節に特有の問題を抱えることがある。透析アミロイドーシスによる手根管症候群や破壊性脊椎関節症、腎性骨異栄養症による骨のもろさ——透析が命をつなぐ一方で、長期の透析が骨・関節に与える影響と向き合うのも、整形外科の役割の一つだ。
シャント(内シャント・人工血管)は透析患者の「命綱」だ。手術の際にはシャント側の腕で血圧を測ったり点滴を取ったりしないよう、細心の注意を払う。クイントンとスクリブナーが1960年に解決した「血管アクセス」の問題は、形を変えて今も透析医療の中心にあり続けている。
コルフが特許で独占せず技術を世界に分け与えたという話は、ワルファリンを生んだWARFの話や、インスリンを安価に提供しようとしたバンティングの逸話と通じるものがある。医学史には、発見を「私有」せず人類の共有財産にしようとした人々が確かに存在する。商業化が当たり前になった現代だからこそ、その精神は記憶されるべきだと思う。
「神の委員会」のエピソードは、医療資源が有限であるという、今も変わらない現実を突きつける。誰に高額な治療を、誰に移植臓器を——配分の問題は、技術が進歩するほどむしろ深刻になる。透析の歴史は、機械の進歩史であると同時に、医療倫理の出発点の一つでもあった。
参考資料
- Graham T. (1861). “Liquid Diffusion Applied to Analysis.” Philosophical Transactions of the Royal Society, 151, 183–224.
- Abel JJ, Rowntree LG, Turner BB. (1914). “On the removal of diffusible substances from the circulating blood of living animals by dialysis.” Journal of Pharmacology and Experimental Therapeutics, 5, 275–316.
- Haas G. (1925). “Versuche der Blutauswaschung am Lebenden mit Hilfe der Dialyse.” Klinische Wochenschrift, 4, 13–14.
- Kolff WJ, Berk HTJ. (1944). “The artificial kidney: a dialyser with a great area.” Acta Medica Scandinavica, 117, 121–134.
- Quinton W, Dillard D, Scribner BH. (1960). “Cannulation of blood vessels for prolonged hemodialysis.” Transactions of the American Society for Artificial Internal Organs, 6, 104–113.
- Alexander S. (1962). “They Decide Who Lives, Who Dies.” Life Magazine, November 9, 1962.
- National WWII Museum. “Medical Innovations: Under Occupation, the Development of Dialysis.”
- Heiney P. (2002). The Nuts and Bolts of Life: Willem Kolff and the Invention of the Kidney Machine. Sutton Publishing.

