1967年12月3日、南アフリカ・ケープタウン。
午前1時過ぎ、グルート・シュール病院の手術室に9人の外科医チームが集まった。
これからしようとしていることは、前例のない行為だった。死んだ人間の心臓を取り出し、別の人間の胸に縫いつける——それは「不可能」と言われていた手術であり、「倫理的に許されるか」が問われていた行為だった。
執刀医の名はクリスチャン・バーナード(Christiaan Barnard)、45歳。
患者の名はルイス・ワシュカンスキー(Louis Washkansky)、54歳。糖尿病と重篤な心不全を抱え、余命数日と診断されていた。
1. 心臓移植の「不可能」——なぜこれほど難しかったか
20世紀初頭、外科医たちは心臓を「触れてはならない臓器」と考えていた。
理由は単純だ。心臓は止められない。少しでも血流が途絶えれば、脳は数分で不可逆的なダメージを受ける。心臓に触れること自体が患者の死を意味した。
この壁を最初に破ったのが人工心肺装置(体外循環装置)の開発だ。1953年、ジョン・ギボン(John Gibbon)がこの装置を使って世界初の開心術(心臓を開いた手術)を成功させた。心臓の働きを機械に代行させながら縫合できるようになり、心臓外科という分野が誕生した。
しかし「移植」には別の壁があった。免疫拒絶反応だ。
他者の臓器を体内に入れると、免疫系が「異物」として攻撃し、数日から数週間で臓器が機能不全に陥る。この問題を解決しなければ、たとえ移植手術が技術的に成功しても、患者は短期間で死亡する。
1954年、ジョゼフ・マレー(Joseph Murray)が一卵性双生児間での腎臓移植に世界で初めて成功した(この功績で1990年にノーベル賞)。双子間では免疫型が同一のため拒絶が起きない——しかし現実には、ドナーが必ず双子であるわけではない。
他人の臓器を受け入れるための免疫抑制薬の開発が進む中、1960年代には心臓移植の技術的な準備がほぼ整っていた。「誰が最初にやるか」——医師たちの間で、静かな競争が始まっていた。
2. ドナーの心臓——デニス・ダーヴァルの決断
1967年12月2日夜、ケープタウンで一台の車が事故を起こした。
デニス・ダーヴァル(Denise Darvall)、25歳の銀行員は、母親とともに交通事故に遭い、脳死状態に陥った(母親は即死)。
デニスの父、マーヴィン・ダーヴァルは病院に駆けつけた。医師から娘の状態——脳死、回復の見込みなし——を告げられ、バーナードは心臓提供を願い出た。
「もし娘が誰かの命を救えるなら、それで構わない」
父親の承諾を得たバーナードは、深夜に手術チームを招集した。
デニスの心臓がルイス・ワシュカンスキーの胸の中で動き始めたのは、1967年12月3日の午前6時過ぎのことだった。手術時間は9時間に及んだ。
3. 18日間——最初の心臓移植患者が生きた時間
手術は成功した。
移植された心臓は正常に動き始め、ワシュカンスキーは術後に目を覚ました。「私はよくなっている」と言い、家族と会話し、ジュースを飲んだ。
世界中のメディアが報道した。「奇跡の手術」「人類の新章」——バーナードは一夜にして世界的な有名人になった。
しかし免疫拒絶を抑えるために投与された大量の免疫抑制薬が、別の問題を引き起こした。免疫機能が低下したワシュカンスキーの肺に、肺炎が忍び込んだ。
1967年12月21日、ルイス・ワシュカンスキーは肺炎で死亡した。
手術から18日後のことだった。
4. それでも手術は続いた——なぜ「失敗」が前進を生んだか
ワシュカンスキーの死は、心臓移植の挫折を意味しなかった。
バーナードは翌1968年1月2日、2人目の患者フィリップ・ブレイバーグ(Philip Blaiberg)に心臓移植を行った。ブレイバーグは594日生存し、「心臓移植を受けた患者が日常生活を送れること」を世界に示した。
世界中の外科医が追随した。1968年だけで100件以上の心臓移植が世界各地で実施された。
しかし死亡率は依然として高かった。拒絶反応、感染症——免疫抑制の問題が解決されないまま手術件数だけが増えた結果、1970年代に入ると心臓移植の件数は急減した。多くの医師が「時期尚早だった」と判断し、手術を中止した。
決定的な転機はシクロスポリン(cyclosporine)の登場だ。
1976年、スイスの製薬会社サンドスの研究者ジャン=フランソワ・ボレル(Jean-François Borel)が、土壌菌から強力な免疫抑制物質を発見した。シクロスポリンは従来の免疫抑制薬より選択的に免疫を抑え、感染症リスクを大幅に下げた。1983年に本格的な臨床承認を得ると、心臓移植の1年生存率は劇的に改善した。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1953年 | ギボン、人工心肺装置を使った世界初の開心術に成功 |
| 1954年 | マレー、世界初の腎臓移植成功(双生児間) |
| 1967年12月3日 | バーナード、世界初の心臓移植。患者は18日後に肺炎で死亡 |
| 1968年1月2日 | 2例目——ブレイバーグ、594日生存 |
| 1976年 | シクロスポリン発見 |
| 1983年 | シクロスポリン臨床承認、移植成績が急改善 |
| 1990年 | マレー、ノーベル生理学・医学賞受賞 |
5. 倫理の問題——「脳死」とは何か
心臓移植は外科技術だけでなく、社会の定義そのものを変えた。
移植には新鮮な心臓が必要だ。心臓が止まった後では間に合わない。つまり「まだ心臓が動いている状態の人」から心臓を取り出さなければならない——これが可能なのは「脳死」という概念が社会的・法的に認められた場合だけだ。
バーナードの手術が行われた1967年当時、「脳死=人の死」という概念は法的に確立されていなかった。デニス・ダーヴァルの心臓は、法的にはまだ「生きている人間」の体内にあった。
この問題に正面から向き合ったのが、1968年にハーバード大学が発表した「ハーバード脳死基準」だ。不可逆的昏睡の定義を提示し、脳死を「死」とみなす医学的根拠を示した。各国が順次、脳死判定基準と臓器移植法を整備していった。日本では1997年に臓器移植法が成立し、脳死下での臓器提供が法的に可能になった。
心臓移植は単なる手術ではなかった。「死とは何か」という問いに、社会が答えを出すことを迫る行為だった。
まとめ:18日間が変えた100年
ルイス・ワシュカンスキーは18日しか生きられなかった。
しかしその18日間が、人類に「心臓は交換できる」という事実を証明した。技術が問題なのではなく、免疫抑制が問題なのだという方向性を示した。そしてシクロスポリンという解答が出たとき、移植医療は一気に現実のものになった。
現在、世界では年間約5,000件の心臓移植が行われており、術後10年生存率は50%を超えている。「18日間の失敗」から始まった移植医療は、今や普通の治療の選択肢になっている。
バーナードは2001年に亡くなった。晩年、彼はこう語っている。「私は外科医としては普通の人間だった。ただ、誰よりも先にやろうとした」。
正しい問いを、正しい時に立てた人間が歴史を変える——アスピリンも、インスリンも、心臓移植も、その構造は同じだ。
参考資料
- Barnard, C.N. (1967). “A human cardiac transplant.” South African Medical Journal, 41(48), 1271–1274.
- Cooper, D.K.C. (2001). “Christiaan Barnard and his contributions to heart transplantation.” Journal of Heart and Lung Transplantation, 20(6), 599–610.
- McRae, D. (2006). Every Second Counts: The Race to Transplant the First Human Heart. G.P. Putnam’s Sons.
⚠️ 免責事項:本記事は医学史・医療史の教育・情報提供を目的としたものであり、特定の疾患の診断・治療・予防を目的とした医療アドバイスではありません。健康上の問題については、必ず医師・医療機関にご相談ください。

