目隠しされた産婦と、謎の箱——産科鉗子を100年以上隠し続けたチェンバレン家

医療器具・技術の歴史

17世紀のロンドン。難産で丸一日苦しんでいる家に、一人の男が呼ばれてくる。

男は大きな箱を運び込ませる。装飾の施された、重そうな木箱だ。そして部屋にいた家族も産婆も、全員を外に出す。残るのは男と産婦だけ。産婦には目隠しがされる。

扉の向こうで家族が待つ。中で何が行われているのかは分からない。やがて——赤ん坊の泣き声が聞こえる。

男の名はチェンバレン。箱の中身は、産科鉗子だった。

母子をともに救いうるこの器具を、チェンバレン家は一族の秘密として100年以上隠し続けた。今回は、医学史でもっとも「もったいない」秘密の話をしたい。


1. 鉗子以前の難産——「母か、子か」

まず、鉗子がなかった時代の難産がどういうものだったかを押さえておきたい。

赤ん坊の頭が産道でつかえて出てこない。陣痛は続くのに進まない。このまま放置すれば、母子ともに死ぬ。

当時の産科にあった選択肢は、残酷なほど少なかった。

  • 胎児を手で引き出す——頭がはまり込んでいれば不可能
  • 帝王切開——麻酔も消毒もない時代、母体はほぼ確実に死ぬ
  • 鉤(かぎ)で胎児を引き出す——頭蓋を砕いて小さくし、鉤(クロシェ)で引きずり出す

最後の方法は、胎児の命を諦めることを意味する。つまり難産の現場では、しばしば「母を救うために子を諦める」という選択が迫られていた。

当時、お産を取り仕切っていたのは女性の産婆だった。男の外科医が産室に呼ばれるのは、産婆の手に負えなくなったとき——つまり、ほとんどの場合胎児をあきらめて引き出すときだった。そのため、産室に男が入ってくることは、家族にとって悪い知らせそのものを意味したという。

チェンバレン家が名声を得たのは、まさにこの構図を覆したからだ。彼らが呼ばれると、子どもが生きて生まれてくる。周囲から見れば、それは魔法に近かっただろう。

もし、生きたまま赤ん坊の頭を挟み、産道に沿って引き出せる道具があったら——。それが鉗子である。


2. ユグノーの一家

チェンバレン家は、フランスのプロテスタント(ユグノー)だった。1569年、宗教迫害を逃れて、理髪外科医のウィリアム・チェンバレンが家族とともにイングランドへ渡ってきた。

ややこしいことに、彼の息子は二人とも「ピーター」という名前だった。兄の「ピーター(兄)」と、弟の「ピーター(弟)」。鉗子を考案したのは、おそらく兄のピーターとされている。彼は王妃の産科を務めるほどの腕利きの「男の助産者」だった。

この技術は、弟ピーターの息子であるドクター・ピーター・チェンバレン(1601〜1683)、さらにその息子のヒュー・チェンバレンへと受け継がれていく。4代にわたる産科医の家系である。


3. 箱と目隠し——秘密の守り方

彼らの秘密の守り方は徹底していた。

  • 器具は大きな箱に入れて運び込む
  • お産の部屋からは家族も産婆も全員退出させる
  • 産婦本人にも目隠しをする

器具を見たことがあるのは、一族の人間だけ。こうしておけば、何が使われたのかを誰も説明できない。

なぜそこまでして隠したのか。理由は単純で、商売になったからである。他の誰も救えない難産を、自分たちだけが救える。その評判が、王侯貴族の顧客と高額な報酬を呼んだ。

一族の野心はそれだけにとどまらなかった。ピーター兄弟、そしてドクター・ピーターは、ロンドンの助産婦を一つの組合にまとめ、その監督をチェンバレン家が担うという構想を何度も持ち出している。王立医師会の反対で実現しなかったが、もし通っていれば、イングランドの産科は一族の支配下に置かれていたことになる。

ちなみにドクター・ピーターという人は、公衆浴場の独占権を取ったり、土曜日を安息日とする教会を作ったりと、なかなか個性的な人物だったらしい。


4. パリでの失敗

1670年、ヒュー・チェンバレンは秘密を売ることを考えた。買い手として目をつけたのは、フランス政府である。

パリで彼は、当時ヨーロッパを代表する産科医フランソワ・モーリソーに会う。モーリソーは、ヒューの腕前を試すために一人の患者を割り当てた。骨盤がひどく変形した38歳の女性である。

結果は失敗だった。ヒューは長時間にわたって奮闘したが娩出できず、産婦は亡くなった(子も助からなかったとする記録がある)。商談は流れた。

この患者の骨盤の変形は、おそらくくる病によるものだったと考えられている。成長期にビタミンDが不足して骨が曲がるあの病は、女性の骨盤を狭く歪ませ、難産の大きな原因になっていた。どれほど優れた鉗子でも、骨盤そのものが通れない形をしていれば、頭は出てこない。鉗子は万能ではなかったのだ。

それでもヒューは転んでもただでは起きなかった。帰国後、モーリソーの産科教科書を英訳して出版し(1672年)、その序文で「わが一族には難産を解決する秘密の方法がある」とほのめかした。中身は明かさず、存在だけを宣伝したのである。


5. 片方だけ売った?——秘密が漏れるまで

その後ヒューはオランダへ渡り、アムステルダムの医師に秘密を売ったと伝えられる。

ここに、真偽不明だがよくできた後日談がある。売られたのは鉗子の片方の刃だけだった——というのだ。鉗子は2枚の刃を組み合わせて初めて機能する。片方だけでは役に立たない。本当だとすれば、ヒューは秘密を売りながら秘密を守ったことになる。もっとも、これは確かめようのない話として受け取っておくべきだろう。

一族の秘密は、18世紀初めになってようやく外へ漏れ始める。1720年代から30年代にかけて、他の医師たちが鉗子の存在を公にし、その形を論文に書くようになった。考案から数えて、100年以上——数え方によっては150年近く——が経っていた。

対照的なのが、フランドルの外科医ヤン・パルファインである。彼は1723年、自ら考案した鉗子をパリの王立科学アカデミーで公開した。特許も秘伝もなし。誰でも見て、誰でも作れる形で差し出したのだ。この器具は「パルファインの手」と呼ばれた。刃が交差しない平行型で、性能ではチェンバレンの鉗子に及ばなかったとも言われる。それでも、隠さずに差し出したという一点で、彼の名は医学史に残っている。

その後の改良は速かった。フランスのルヴレとイギリスのスメリーが、産道のカーブに沿う骨盤彎曲を刃に加え、鉗子は以後200年にわたって産科の基本器具になる。


6. 1813年、屋根裏の床下から

話はここで終わらない。

1813年、イングランド東部エセックス州の古い屋敷ウッドハム・モーティマー・ホールで、屋根裏の床下にある隠し扉の中から、古い器具の入った箱が見つかった。

中には数本の産科鉗子と、手袋や古い硬貨などが入っていた。この屋敷は、かつてドクター・ピーター・チェンバレンが住み、そして死んだ家である。彼の死後、妻がこっそり隠したと伝えられている。

およそ130年間、一族の秘密は文字どおり床下に眠っていた。器具は医学協会に寄贈され、今もイギリス王立医学協会が保管している。

そして発見された鉗子には、骨盤彎曲がなかった。頭を挟むカーブだけを持つ、素朴な形だった。後の改良を経ていない、最初期の姿が保存されていたのである。


7. 同じ頃、日本では

最後に、同じ問題に日本がどう向き合っていたかに触れておきたい。

18世紀半ば、京都の賀川玄悦(かがわ・げんえつ)は、難産で胎児がすでに亡くなっている産婦に対し、一本の鉄の鉤を使って胎児を引き出し、母親の命を救った。これが「回生術」の始まりとされる。ヨーロッパのクロシェと、発想はほぼ同じである。母か子かの選択を迫られたとき、玄悦は母を選んだ。

玄悦はさらに、1765年刊の『産論』で、胎児が妊娠中から頭を下にしているという正常胎位を記した。当時の通説は「胎児は頭を上にしていて、お産のときに回転する」だった。イギリスのスメリーとほぼ同時期の、独立した発見である。

そして19世紀に入ると、水原三折(みずはら・さんせつ)が、胎児の顎に掛けて引き出す「探頷器(たんがんき)」を考案する。天保7年(1836年)の『産科探頷図訣』で発表されたこの器具の狙いは、母子ともに救うことだった。

鉤で母を救う段階から、母子ともに救う道具へ。日本もまた、ヨーロッパとは別の道筋で、同じ問いに答えようとしていたのである。


まとめ:隠された100年の重さ

チェンバレン家の物語は、医学史の中でも独特の後味を残す。

彼らは確かに偉大な発明をした。そして、それによって救われた母子もいたはずだ。けれど同じ100年あまりのあいだ、一族の手が届かない場所では、変わらず鉤が使われ続けていた。救えたかもしれない命の数は、誰にも数えられない。

ちなみに鉗子そのものは、現代では主役の座を降りつつある。安全な帝王切開と、吸引分娩(吸盤で頭を引く方法)の普及によって、鉗子分娩の件数は大きく減り、鉗子を使いこなせる産科医の育成も難しくなっていると言われる。200年以上産科を支えた道具が、今度は技術の継承という別の問題に直面しているのは、少し皮肉な巡り合わせだ。

以前取り上げた華岡青洲も、麻酔薬の処方を血判の誓約書で門外不出にした。青洲の秘密主義には「濫用されれば患者が死ぬ」という安全上の理由があったが、結果として技術が広がらなかった点は同じである。

知識は、隠せば財産になり、広めれば共有財産になる。現代の医学が論文として成果を公開し、誰でも追試できる形にするのは、こうした歴史の積み重ねの上にある。目隠しをされた産婦の向こうにあったのは、医学がまだ「家の秘伝」だった時代の姿なのだ。


筆者注

知り合いの産婦人科医から、分娩後の子宮からの出血を止めるために、膣から手を入れて子宮を直接圧迫することがある(双手圧迫と呼ばれる手技である)と聞いて、びっくりしたことがある。

「産婦人科には、そんな乱暴な手技があるのか」と聞くと、「四肢をノコギリで切断する整形外科ほどではない」と返された記憶がある。

言われてみれば、返す言葉がなかった。


参考資料

  • Dunn PM. (1999). “The Chamberlen family (1560–1728) and obstetric forceps.” Archives of Disease in Childhood – Fetal and Neonatal Edition, 81(3), F232–F234.
  • Aveling JH. (1882). The Chamberlens and the Midwifery Forceps. London: J. & A. Churchill.
  • 賀川玄悦(1765)『産論』/名古屋大学附属図書館医学部分館 所蔵資料.
  • 水原義博(三折)(1836)『産科探頷図訣』.

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⚠️ 免責事項:本記事は医学史・医療史の教育・情報提供を目的としたものであり、特定の疾患の診断・治療・予防を目的とした医療アドバイスではありません。健康上の問題については、必ず医師・医療機関にご相談ください。

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