最初の患者は4か月半で死んだ——華岡青洲、「世界初の全身麻酔」のその後

外科・手術の歴史

文化元年(1804年)10月13日、紀州・平山。

華岡青洲(はなおか・せいしゅう)は、60歳の女性に通仙散(つうせんさん)という薬を飲ませた。チョウセンアサガオ(曼陀羅華)を主成分とする、彼が20年かけて作り上げた麻酔薬である。女性が深い眠りに落ちたのを確かめて、青洲は乳房の腫瘍を切除した。

記録に残るものとしては、世界で最初の全身麻酔下の手術だった。アメリカでモートンがエーテル麻酔を公開するのは1846年。青洲はそれより42年早かった。

——ここまでは、よく知られた話だ。

だが、この物語は「成功しました、めでたし」では終わらない。その後に青洲が直面したのは、彼がまったく予想していなかった問題だった。今回はその、あまり語られない続きをたどる。

なお青洲は乳がん専門の医師ではない。膀胱結石、脱疽、痔——あらゆる外科疾患を扱った総合的な外科医であり、門人が残した『青洲華岡先生整骨図説』には、ほぼ全身の関節の脱臼整復法が15図、包帯法が11図にわたって描かれている。整形外科の領域にも、彼の手は及んでいた。


1. 最初の患者「勘」は、4か月半後に死んだ

最初の患者の名は藍屋 勘(あいや・かん)。大和国五條(現在の奈良県五條市)の商人、藍屋利兵衛の母で、60歳だった。

手術は成功した。勘は二十数日後には自分の足で故郷へ帰っている。

しかし——弘前大学の麻酔科医松木明知(まつき・あきとも)の調査によって、勘が文化2年(1805年)2月26日に死亡していたことが判明している。手術から、わずか4か月半だった。

理由は、青洲の記録そのものに書かれている。『青洲医談』によれば、勘の腋の下には7つの「核」——つまりリンパ節——が触れた。腋窩リンパ節に7個。現代の目で見れば、これは明らかに進行した乳がんである。手術の巧拙以前に、すでに手遅れだった。

青洲の受けた衝撃は、彼が「何をしなかったか」に現れている。

  • 勘の手術の詳細を記した『乳巖治験録』は未完のまま終わった
  • 勘の死後、約1年半、乳がんの手術が一例も行われていない
  • 勘が死んだ文化2年、春林軒(青洲の医塾)への入門者はゼロだった

世界初の偉業を成し遂げた直後、彼は手を止めている。


2. そして現れた、誰も知らなかった問題——「再発」

勘の死から青洲が学んだのは、「もっと早い段階で手術しなければならない」ということだった。

だが、早期に手術をするようになると、今度は別の問題が姿を現す。

再発である。

これは考えてみれば当然のことで、同時に、きわめて新しい事態だった。切除しなければ再発は起きない。薬で治らない病を薬で治そうとしているあいだは、「再発」という概念自体が成立しない。青洲が全面的に依拠していた中国の外科書『外科正宗』の乳がんの項にも、再発への言及は一切ない。

つまり再発とは、手術ができるようになって初めて生まれた問題だった。松木は「青洲はわが国で最初に乳癌の再発を認識した」と結論している。

青洲は『灯下医談』にこう書き残している。

乳岩再発ノ者ハ凡百日許ニシテ聚ル也

再発するものは、だいたい100日ほどで固まってくる、と。

松木が再発例10人を追跡すると、初回手術から再発までは平均11.5か月(最短3.5か月、最長25か月)。再手術からさらに再々発するまでは平均6.6か月だった。回を重ねるごとに間隔が短くなる——現代の腫瘍学が知っている、あの経過である。


3. 青洲がたどり着いた答え——「切らない」という判断

では青洲はどうしたか。

彼は、手術をしない症例を決めた。

文化8年(1811年)閏2月、3例目の再発手術を行ったあたりを境に、青洲の方針は変わる。門人・雨森良圭が記した『婦人乳論翼』には、青洲が繰り返し教え諭した言葉が残されている。

もし口開けば、また治し難きの証、必ず治療すべからず。また再作せん

腫瘍が皮膚を破って潰瘍化していたら、手術してはならない。また再発する、と。

また脇下まで厚(ふと)き筋引きあれば、九分九厘まで治し難きの証なり

腋の下まで索状の硬いものが続いていれば、九分九厘治らない、と。

そしてもう一つ。

乳岩之塊少しも残すべからず。また後に少しにても残りあらばまた再作せん

腫瘍を少しでも残してはならない。残せばまた再発する——これは切除断端の概念そのものだ。

青洲が到達したのは、外科の二つの根幹である。どこまで切るか(断端)と、そもそも切ってよいか(手術適応)。彼は200年前に、自分の失敗の積み重ねだけを頼りに、この二つにたどり着いた。

適応を絞ったからといって、青洲が手術をやめたわけではない。方針を変えた文化8年には8例、翌文化9年には13例、文化10年に7例——手術そのものはむしろ軌道に乗っている。「切る症例を減らした」のではなく、「切る症例を選べるようになった」のだ。この転換の後、約6年半にわたって再発例の手術が行われた形跡がない。

記録に残る再発率は、文化14年(1817年)以降の68例中7例で10.3%、生涯の140例では7.1%。ただし松木自身が注意を促している——遠方の患者が再発しても春林軒を再訪できなかった例、地元の門人が再手術した例は数に入らない。実際の再発率はもっと高かったはずだ。

もう一つ付け加えておきたい記録がある。天保2年(1831年)正月、「喜兵衛 妻」という患者について、青洲は「これは乳岩ではない」と診断して手術をしていない。乳がんに似た良性のしこりを切らずに済ませた、ということだ。「切る」技術を持った医師が「これは切る病気ではない」と見分ける——鑑別診断の記録として、地味だが重い一行である。

ちなみに、青洲が「この症例は不治だ」と一度は手術を断ったのに、医師であった夫の再三の懇願に折れて執刀した記録がある。腋窩の血管を損傷して約1,080mLを出血し、患者は術直後に死亡した。断りきれなかった判断の重さが、そのまま記録に残っている。


4. 200年後、一人の麻酔科医が寺の過去帳を歩いた

青洲は、手術した乳がん患者の記録を『乳巖姓名録(にゅうがんせいめいろく)』として残した。患者の出身地、屋号、続柄、手術の日付——152名分である。

これは当時として驚くべき記録だが、一つだけ欠けているものがあった。その後どうなったかが書かれていない。

そこに挑んだのが、先ほどから登場している松木明知だった。彼は全国2,000を超える寺院の過去帳を調査し、姓名録の患者たちの死亡年月日を一人ずつ照合していった。

その結果、152名中33名の経過が明らかになった。術後の生存期間は——

  • 最短 8日
  • 最長 41年
  • 平均すると 2〜3年

41年生きた人がいる、という事実に、思わず手が止まる。1800年代前半の乳がん手術で、41年。

やっていることは、実質的に後ろ向きコホート研究である。カルテの代わりに過去帳を、追跡調査の代わりに寺を一つずつ訪ねる。200年前の症例集に、現代の麻酔科医が予後データを足したのだ。医学史の仕事とは、こういうものかと思う。

ついでに言えば、この調査があったからこそ、冒頭の「最初の患者は4か月半で死んだ」という事実も分かった。青洲自身の記録は、勘が故郷へ帰ったところで途切れている。手術の記録は残っても、その後の人生は残らない——青洲の時代のカルテが抱えていた限界が、ここに現れている。


5. 妻は本当に失明したのか

ここで、おそらく最も有名な「意外な事実」に触れておきたい。

華岡青洲といえば、麻酔薬の実験台になった母と妻の話が必ず語られる。姑と嫁が青洲の愛をめぐって争うように実験台を志願し、母・於継(おつぎ)は命を落とし、妻・加恵(かえ)は失明した——。

この物語を全国に広めたのは、有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』(1966年)である。小説として傑作であり、医療関係者のあいだでしか知られていなかった青洲の名を一般に広めた功績は大きい。

ただし、嫁姑の確執という構図は、小説の創作だ。

さらに踏み込んで言えば、母と妻が投与試験に参加したことを裏付ける史料そのものが、見つかっていない。小説の元になった資料にも、この話は伝聞としてしか現れないという。

松木明知は、失明したのは妻ではなく母・於継のほうだったと論じている。その根拠の一つが、加恵はその後に6人の子を産み育てているという事実だ——失明した人の経過として無理がある、と。さらに、実験当時の加恵は長女を妊娠中か授乳中だったとみられ、開発途中の麻酔薬をその妻に飲ませるとは考えにくい、とも指摘する。

史実がどうだったかは、おそらくもう確定できない。それでも、私たちが「史実」だと思っている青洲像のかなりの部分が、1966年の小説から来ているというのは、知っておいてよいことだと思う。歴史上の人物のイメージは、しばしば最も面白く書いた人が作る。


6. なぜ世界は青洲を知らなかったのか

最後に、素朴な疑問が残る。42年も先んじていたのに、なぜ青洲は「麻酔の発明者」として世界に記憶されなかったのか。

理由は二つある。

一つは、青洲自身が広めなかったこと。 彼は生涯に1,000人を超える門人を育てたが、通仙散の処方を伝える際には血判を押した誓約書を提出させ、家族にも友人にも明かすなと厳命した。濫用されれば患者が死ぬ——その危惧は、薬の中身を思えばもっともだ。通仙散にはチョウセンアサガオ(スコポラミン、アトロピン)に加え、トリカブト(草烏頭)が配合されている。治療量と致死量の差が、ほとんどない世界である。だが結果として、この技術は国境を越えなかった。

もう一つは、通仙散そのものの限界だ。 効き始めるまで約2時間、手術にかかれるまで約4時間、覚めるまで6〜8時間。飲ませたら最後、深さも時間も調節できない。エーテルや笑気といった吸入麻酔が登場すると、「吸わせれば効き、止めれば覚める」という調節性の前に、通仙散は幕末から明治にかけて急速に姿を消していった。

同じ時代、緒方洪庵が大坂で蘭学を教え、日本の医学は西洋へ向かって舵を切っていく。青洲の麻酔は、その流れに乗らないまま終わった。


まとめ:成功のあとに続いた、長い試行錯誤

華岡青洲の物語は、「1804年、世界初の全身麻酔手術に成功」という一行で語られがちだ。

だが実際に起きたことは、もっと泥臭い。最初の患者は4か月半で死んだ。彼は1年半、手術台から離れた。再開すれば今度は再発に直面し、記録を取り、経過を見比べ、やがて「この患者は切ってはいけない」という線を引いた。

麻酔がなかった時代、外科医の腕は「速さ」で測られた。青洲が手に入れた麻酔は、その制約を取り払った。しかし痛みを取り除いた先に見えてきたのは、どこまで切るか、そもそも切ってよいかという、より難しい問いだった。外科が今も毎日向き合っている問いである。

通仙散は消えた。けれど、失敗を数え、適応を絞り、記録を残すという作業のほうは、形を変えて今も続いている。華岡青洲がほんとうに遺したのは、麻酔薬の処方ではなく、そちらだったのかもしれない。


筆者注

華岡青洲の業績は、どうしても「全身麻酔」の一点で語られがちだ。だが今回いちばん驚いたのは、そこではなかった。彼が悪性腫瘍に対する切除範囲と手術適応という概念を持っていたという事実である。外科系の医師としては、正直に言って驚愕した。

自分も悪性軟部腫瘍の切除で拡大切除を行うことがあるが、いかにきちんとマージンを取って切除するかには毎回神経を使う。「少しでも残せばまた再発する」という青洲の言葉は、そのまま現代の手術室で通用する。

一方で、軟部肉腫ではリンパ節転移にあまり注意を払う場面は多くない。リンパ節転移が大きな問題になってくる乳がんにおいて、画像診断がいっさい使えない状況で診察を進めなければならなかった青洲のことを思うと、尊敬すると同時に、少し可哀想でもある。触診だけを頼りに、腋の下の「核」をひとつずつ数えていたのだから。


参考資料

  • 松木明知(2019)「華岡青洲の乳癌手術における再発例についての考察」日本医史学雑誌 65(1), 85–93.
  • 松木明知(2002)『華岡青洲の新研究』弘前.
  • 呉秀三(1923)『華岡青洲先生及其外科』吐鳳堂書店.
  • 和歌山県立医科大学附属病院紀北分院「華岡青洲の乳がん手術」「華岡青洲の麻酔」
  • 有吉佐和子(1966)『華岡青洲の妻』新潮社.

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⚠️ 免責事項:本記事は医学史・医療史の教育・情報提供を目的としたものであり、特定の疾患の診断・治療・予防を目的とした医療アドバイスではありません。健康上の問題については、必ず医師・医療機関にご相談ください。

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