「日光に当たりなさい」はどこから来たのか——くる病・肝油・ビタミンDの物語
子どもの頃、幼稚園や学校で「肝油ドロップ」を配られた記憶がある人は多いだろう。甘くて、少しだけ魚くさい、あのオレンジ色のゼリー状の粒である。
なぜ子どもに、わざわざ魚の肝臓から搾った油を舐めさせていたのか。そして、なぜ昔の大人は口をそろえて「外で遊びなさい」「日光に当たりなさい」と言ったのか。
その背後には、くる病という病と、人類がそれを克服するまでの百年以上の格闘がある。しかもこの物語の重要な転換点には、意外にも日本が関わっている。今回は、肝油と日光をめぐる栄養学の物語をたどる。
1. 骨が曲がる病——くる病とは何か
くる病(佝僂病・rickets)は、成長期の子どもの骨が正常に硬くならない病気だ。
骨は、コラーゲンの土台にカルシウムが沈着することで硬さを得る。この石灰化(ミネラル化)がうまくいかないと、骨は柔らかいまま成長してしまう。柔らかい骨は、立って歩くようになると体重に耐えられず——曲がる。
典型的な症状は、脚が外側に湾曲するO脚(内反膝)や、逆に膝が内側に寄るX脚。ほかにも、肋骨と軟骨の境目が数珠のように膨らむ「肋骨念珠」、頭蓋骨が柔らかくなる、大泉門がなかなか閉じない、歯が生えるのが遅い、骨の痛み、成長の遅れなど、全身の骨格に影響が及ぶ。
重症の子どもは歩行に障害を抱え、骨盤が変形した女性は、のちの出産で難産に苦しむこともあった。単なる「脚の形」の問題ではなく、生涯にわたる深刻な病だったのだ。
医学的に明確な記述が現れるのは17世紀半ば。1650年にイギリスの医師フランシス・グリソンが著した『くる病論(De Rachitide)』は、この病を体系的に記述した古典として知られている。
2. 「イギリス病」——産業革命が奪った日光
くる病には、かつて「イギリス病(morbus anglicus)」という別名があった。それほどイギリスに多かったのである。
なぜイギリスだったのか。答えは、産業革命にある。
19世紀、ロンドンやマンチェスター、グラスゴーといった工業都市は、石炭を燃やす煙に覆われていた。空はいつも灰色にかすみ、煤煙(ばいえん)が太陽の光を遮った。街は細い路地と高い建物で埋め尽くされ、地面まで日が差さない。
そして子どもたちは、工場や炭鉱で働くために一日中屋内にいた。貧しいスラムの住居は薄暗く、外で遊ぶ時間などない。
結果として、工業都市の子どもたちのあいだで、くる病は爆発的に広がった。20世紀初頭の調査では、工業都市の子どもの大半に何らかのくる病の徴候が見られたという報告もある。曲がった脚の子どもたちは、産業革命がもたらした「進歩」の、もう一つの顔だった。
当時の人々は、この病の原因を栄養不良、不衛生、遺伝、梅毒など、さまざまに推測した。だが真犯人——日光の欠乏——にたどり着く者はいなかった。
3. 日本からの手がかり——宣教医パームの気づき
転機は、思いもよらない場所からもたらされた。日本である。
19世紀後半、イギリス人の医療宣教師セオバルド・パーム(Theobald Palm)は、日本で医療活動に従事していた。そして彼は、ある奇妙な事実に気づく。
日本の子どもたちには、くる病がほとんど見られない。
パームにとって、これは不可解だった。当時の日本の庶民は決して裕福ではなく、食事も質素である。もし栄養不良がくる病の原因なら、日本にこそ多発していなければおかしい。ところが現実は逆で、豊かなはずのイギリスの都市で蔓延し、貧しい日本では稀だったのだ。
パームはイギリスに戻ったのち、世界各地の医師に手紙を送り、各国でのくる病の分布を調べた。浮かび上がったのは、貧富でも食事でもなく、地理と気候との相関だった。くる病が多いのは、日照の乏しい北方の工業都市。少ないのは、たとえ貧しくても日差しの豊かな土地である。
1890年、パームは一つの結論を発表した。くる病の原因は、日光に当たらないことではないか。そして彼は、子どもたちを日光浴させることを予防法として提唱した。
今では常識のように聞こえるこの仮説は、当時は注目されなかった。「日光が骨を作る」など、信じがたい話だったのだ。だが彼の観察は、確かに真実の核心を射抜いていた。日本での素朴な「気づき」が、くる病解明の最初の糸口になったのである。
4. 紫外線ランプが子どもを治した
パームの説が正しいと証明されるまでには、さらに30年近くを要した。
1919年、ベルリンの小児科医クルト・フルトシンスキーが、画期的な実験を行った。第一次世界大戦後の混乱と貧困のなか、くる病に苦しむ子どもたちに、彼は水銀灯による人工的な紫外線を照射したのである。
結果は劇的だった。子どもたちの骨は硬さを取り戻し、くる病は治癒した。日光(紫外線)そのものに治療効果があることが、実験的に示された瞬間だった。
さらにフルトシンスキーは、不思議な現象に気づく。体の一部分だけに紫外線を当てても、全身の骨が改善するのだ。これは何を意味するか——紫外線が当たった皮膚で何かの物質が作られ、それが血液に乗って全身に運ばれている、ということだ。
光が、体内で「薬」を作っている。その正体は、まだ誰も知らなかった。
5. 肝油の中の”もう一つの因子”——ビタミンDの発見
一方、まったく別の方向からも真実に迫る動きがあった。肝油である。
タラなどの魚の肝臓から採る肝油は、北欧の漁村では古くから民間薬として使われ、19世紀には医師たちもくる病に用いるようになっていた。経験的に「効く」ことは知られていたのだ。だが、なぜ効くのかは誰にも分からなかった。
1920年前後、イギリスのエドワード・メランビーは、犬に特定の食餌を与えて人工的にくる病を作り出すことに成功し、それが肝油で治ることを示した。くる病は「食事に含まれる何かの不足」で起きる、と分かったのだ。
当初、その「何か」は、すでに知られていたビタミンAだろうと考えられた。肝油にはビタミンAが豊富だったからだ。
ここで決着をつけたのが、アメリカのエルマー・マッカラムである。1922年、彼は肝油を加熱・酸化させてビタミンAを破壊した。もしビタミンAが正体なら、この肝油はくる病に効かなくなるはずだ。ところが——抗くる病作用はしっかり残っていた。
つまり肝油には、ビタミンAとは別の未知の因子が含まれている。A・B・Cに続く4番目の発見として、この因子はビタミンDと名づけられた。
こうして二つの流れが合流する。紫外線が皮膚で作る物質と、肝油に含まれる物質は、同じビタミンDだったのだ。
6. 牛乳に紫外線を当てる——くる病の制圧
発見は、すぐに実用化へ向かった。立役者はアメリカの生化学者ハリー・スティーンボックだ。
1923年頃、スティーンボックは驚くべき事実を見出す。食品そのものに紫外線を当てると、その食品が抗くる病作用を持つようになるのだ(食品中のステロールが、紫外線でビタミンDに変化するためだった)。
彼はこの技術で特許を取得し、牛乳への紫外線照射(のちにビタミンD添加)を実用化した。子どもが毎日飲む牛乳が、そのままくる病の予防薬になったのである。
効果は絶大だった。かつて工業都市の子どもたちを苦しめた「イギリス病」は、欧米からほぼ姿を消した。日本でも、学校や幼稚園で配られた肝油ドロップが同じ役割を果たした。あの甘い粒は、骨の曲がった子どもたちの時代を終わらせるための、公衆衛生の道具だったのだ。
ちなみにスティーンボックは、この特許収入を母校ウィスコンシン大学の研究財団に寄付し、以後の研究資金として循環させた。発見が、次の発見を生む仕組みを作ったのである。
7. ビタミンでありホルモンでもある——そして現代の再来
ところでビタミンDには、他のビタミンにはない奇妙な性質がある。
ビタミンとは本来、「体内で作れないため、food(食物)から摂らねばならない微量栄養素」を指す。ところがビタミンDは、日光(紫外線B)を浴びれば、私たちの皮膚が自前で作り出せる。皮膚にあるコレステロールの一種が、紫外線を受けてビタミンDへと変化するのだ。
さらに体内でビタミンDは活性型に変換され、腸からのカルシウム吸収を促し、骨の石灰化を調節する——これはもはや、ビタミンというよりホルモンの働きである。「ビタミンでありながら、ビタミンの定義から外れる物質」。ビタミンDは、そんな例外的な存在だ。
そして——この物語には、現代の続きがある。近年、くる病やビタミンD欠乏が再び報告されるようになっているのだ。
理由は、皮肉にも「進歩」の副産物である。紫外線による皮膚がんやシミを避けるための徹底した日焼け対策、屋内中心の生活、食物アレルギーによる除去食、母乳のみでビタミンDを補充しない育児——こうした要因が重なり、日光と食事の両方からビタミンDが不足する子どもが出てきている。
煤煙が日光を奪った19世紀と、私たち自身が日光を避ける21世紀。理由はまるで違うのに、結果として同じ病が戻ってくるというのは、なんとも示唆的だ。
まとめ:日光という「栄養」
くる病の物語は、栄養学の中でも少し変わった位置にある。
壊血病はレモンで、脚気は麦飯で、ペラグラはトウモロコシ食の是正で——多くの欠乏症は「何を食べるか」で解決した。ところがくる病だけは、食べ物と同じくらい「どう暮らすか」が効いた。日の差さない街で、屋内に閉じ込められて働く——その生活そのものが病を生み、外に出て日に当たることが薬になった。
日本の子どもにくる病が少ないことに気づいた宣教医の目。紫外線ランプの下で骨を取り戻した子どもたち。肝油の中に隠れていた第4のビタミン。そして牛乳に当てられた一筋の紫外線。それらが積み重なって、ようやく「日光に当たりなさい」という、あのありふれた一言の科学的な裏づけが完成した。
肝油ドロップの甘さの向こうには、曲がった脚の子どもたちをなくすために費やされた、百年分の探究が詰まっている。
筆者注
意外に思われるかもしれないが、現代の日本人はかなりの割合でビタミンDが不足傾向にある。日本人を対象とした調査では、血中のビタミンD濃度が充足とされる水準に届かない人が大多数を占めるという報告もある。「日光に当たりなさい」という昔の人の言葉は、形を変えて今も有効なのかもしれない。
仕事柄、血中のビタミンD濃度を測定する機会は多い。そして測るたびに、ふと疑問が浮かぶ。くる病を起こすほどのビタミンD不足と、骨粗鬆症の背景にあるビタミンD不足とでは、血中濃度の水準は違うのだろうか。 同じ「ビタミンDが足りない」でも、子どもの骨が曲がる話と、高齢者の骨がもろくなる話とでは、体の中で起きていることはずいぶん違う気がする。どのあたりの濃度から、どちらの問題が立ち上がってくるのか。
恥ずかしながら、まだきちんと調べていない。記事を書くたびに、自分の中の宿題が一つ増えていく。
参考資料
- Glisson F. (1650). De Rachitide sive Morbo Puerili. London.
- Palm TA. (1890). “The geographical distribution and aetiology of rickets.” The Practitioner, 45, 270–279, 321–342.
- Huldschinsky K. (1919). “Heilung von Rachitis durch künstliche Höhensonne.” Deutsche Medizinische Wochenschrift, 45, 712–713.
- Mellanby E. (1919). “An experimental investigation on rickets.” The Lancet, 193(4985), 407–412.
- McCollum EV, et al. (1922). “Studies on experimental rickets. XXI.” Journal of Biological Chemistry, 53, 293–312.
- Steenbock H. (1924). “The induction of growth-promoting and calcifying properties in a ration by exposure to light.” Science, 60(1549), 224–225.
- Rajakumar K. (2003). “Vitamin D, cod-liver oil, sunlight, and rickets: a historical perspective.” Pediatrics, 112(2), e132–e135.
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⚠️ 免責事項:本記事は医学史・医療史の教育・情報提供を目的としたものであり、特定の疾患の診断・治療・予防を目的とした医療アドバイスではありません。健康上の問題については、必ず医師・医療機関にご相談ください。

