バーク&ヘア事件——解剖学の需要が生んだ19世紀スコットランドの暗部

外科・手術の歴史

死体を売っていた男たち——バーク&ヘア事件と近代解剖学が払った代償

対象キーワード: 解剖学 歴史 / バーク ヘア 事件 / 死体盗掘 医学 / ヴェサリウス 解剖 / 解体新書 山脇東洋 想定文字数: 約4,800字 カテゴリ: 外科・手術の歴史


1828年のエジンバラ。下宿屋の女将が宿泊客の男の死体を発見した。不審に思った警察が調べると、その死体は新鮮すぎた。死後数日ではない——ほぼ直後だ。

捜査の先にいたのは、ウィリアム・バークとウィリアム・ヘア。二人は16人を殺害し、その死体を解剖用として売りさばいていた。買い手は医師だった。

これは猟奇事件の話ではない。医学が「人体の内側」を知ろうとするとき、社会が払わされた代償の話だ。


1. ガレノスの1400年——「解剖しない医学」の時代

古代ローマの医師ガレノス(Claudius Galenus, c.129–c.210年)は、当時最高の解剖学者だった。しかし彼が解剖したのは主に動物——バーバリーマカクやブタだった。

理由は宗教と法律だ。ローマでは人体解剖が禁じられており、ガレノスは動物の観察から人体の構造を「推論」せざるを得なかった。その結果、人間の肝臓を5葉構造と記述するなど、後に誤りと判明する内容が多数含まれた。

それでもガレノスの権威は揺るがなかった。中世ヨーロッパでキリスト教会が人体解剖をタブー視したこともあり、彼の記述はほぼ訂正されないまま約1400年間、医学の「正典」であり続けた

医師たちは実際に体を開けて確かめるのではなく、書物を読んで暗記した。手術は「外科医」という別の職業が担い、医師は「指示を出す」人間だった。解剖台の前に座った医師が本を読み上げ、別の人間が切る——これが15世紀頃までの「解剖学講義」の実態だった。


2. ヴェサリウスの革命——自分の手で切った医師

1543年、一冊の本が医学の前提を覆した。

アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius, 1514–1564)が出版した『人体の構造について(De humani corporis fabrica)』だ。

ヴェサリウスはパドヴァ大学の解剖学教授だった。彼の革命は単純だった——自分の手で人体を解剖し、見たままを記録した。書物を読み上げながら別の人間に切らせるのではなく、自ら解剖台に立った。

その結果、ガレノスの誤りが次々と明らかになった。人間の肝臓は5葉ではなく2葉だ。胸骨の骨節数が違う。大腿骨は湾曲していない——動物の骨の形だった。

ヴェサリウスは200か所以上のガレノスの誤りを指摘したとされる。当然、旧来の権威側からの激しい批判を受けた。しかし「見たままを記録する」という方法論は医学に定着し、近代解剖学の礎となった。

問題はここから始まった。解剖学が進歩するほど、より多くの「人体」が必要になった。


3. 需要と禁忌のはざまで——「復活男たち」の登場

17〜18世紀のイギリスで、医学校が急増した。外科医の需要が高まり、解剖実習が医学教育の中核に据えられた。

しかし、合法的に解剖できる死体は極めて少なかった。

1752年、イギリス議会は殺人法(Murder Act)を制定した。死刑判決を受けた殺人犯の死体を、死後に解剖または効かし示しにすることを認めたのだ。これは付加刑として設計されていた——「死ぬだけでは足りない、体も切り刻まれる」という恐怖が犯罪抑止になると考えられた。

しかし全国の医学校が必要とする死体の数には、処刑される殺人犯の数が到底追いつかなかった。

ここに商機を見た人々がいた。「復活男たち(resurrection men)」と呼ばれた死体盗掘業者だ。

彼らは夜に墓地に忍び込み、埋葬されたばかりの新鮮な死体を掘り起こした。棺を完全に掘り出す必要はない。棺の頭側だけ露出させ、蓋を割って縄で引き出せばいい。衣服や副葬品を盗むと窃盗罪になるが、死体を持ち去ること自体は当時のイギリス法では明確に犯罪とされていなかった——法の盲点だった。

遺族たちは必死の対抗策をとった。墓石を重くする、鉄格子で墓を囲む、「モーツェイフ(mortsafe)」と呼ばれる鉄製の棺を使う。腐敗が進むまで番人を置く家もあった。それでも復活男たちはより巧妙な手口で掘り続けた。


4. バーク&ヘア——「掘る」から「殺す」へ

1820年代のエジンバラは、当時ヨーロッパ屈指の医学都市だった。その中でもロバート・ノックス(Robert Knox)は人気の解剖学者で、サージャンズ・スクエア10番地の私立解剖学校に500人以上の学生を集めていたとされる。

ノックスは死体を定期的に必要としていた。その需要に応えたのが、アイルランド移民のウィリアム・バーク(William Burke)ウィリアム・ヘア(William Hare)だ。

最初は偶然だった。1827年、ヘアの下宿屋で老人の宿泊客が自然死した。ヘアはその死体をノックスに売り、7ポンド10シリングを手にした。それが全ての始まりだった。

自然死を待つのは効率が悪い。二人はやがて「需要を自分たちで作る」ことにした。

手口はシンプルだった。ホームレスや酔った浮浪者を下宿に招き、酔いつぶれたところで口と鼻を塞ぎ、窒息死させる。解剖されても「溺死」や「自然死」に見える方法だった。この殺害方法は後に「バーキング(burking)」という動詞として英語に残った。

1827年から1828年にかけて、二人は16人を殺害した。ノックスへの売上は合計で約130ポンドに達したとされる。

事件が発覚したのは1828年10月。宿泊客の一人が別の客の死体を発見し、警察に通報した。


5. 裁判と処刑——皮肉な結末

ウィリアム・ヘアは王の証拠(King’s evidence)として検察側に協力することで免責された。彼はバークとの共犯を全て証言し、1829年2月に釈放された。その後の消息はほぼ記録されていない。

ウィリアム・バークは1829年1月28日に絞首刑に処された。群衆の数は約2万5000人とされる。

そして——皮肉にも——バークの遺体は公開解剖に付された。エジンバラ大学のアレクサンダー・モンロ教授(三代目)がオールド・カレッジの解剖台でバークの体を切り開いた。見学者は「ひどい奴だ」と叫びながら、医学の発展のためとして正当化された解剖を見守った。

バークの骨格標本は現在もエジンバラ大学の解剖学博物館に展示されている。バークの皮膚で作られた名刺入れはサージャンズ・ホール博物館に収蔵されている。

ロバート・ノックスは不起訴となった。しかし「知っていたはずだ」という世論の激しい非難を受け、学校は閉鎖に追い込まれた。


6. 解剖法(1832年)——法が変わった日

バーク&ヘア事件の衝撃は、立法を動かした。

1832年、イギリス議会は解剖法(Anatomy Act)を制定した。

この法律は、病院・救貧院・刑務所での引き取り手のない死体を解剖用として合法的に提供することを認めた。これにより、医学校は合法的に十分な数の死体を確保できるようになり、死体盗掘の需要は急速に消滅した。

しかしこの法律には厳しい批判もある。歴史家ルース・リチャードソンが指摘したように、解剖は長年「殺人犯への刑罰」として社会に位置づけられていた。解剖法はその刑罰の対象を殺人犯から貧困者(救貧院に収容されるほどの)へと移し替えたのだ。「貧しく死ねば体まで切り刻まれる」という恐怖は、19世紀の庶民に深く刻まれた。


7. 日本の解剖禁忌——山脇東洋から解体新書へ

同時代の日本でも、人体解剖は容易ではなかった。

山脇東洋(1705–1762)は1754年(宝暦4年)、京都所司代から許可を得て、刑死者の遺体を解剖した。これは日本における近代的な人体解剖の嚆矢とされ、その観察記録は1759年に『蔵志』として刊行された。

さらに1771年(明和8年)、杉田玄白ら蘭方医たちが江戸・小塚原の刑場で腑分けに立ち会った。彼らはオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア(Ontleedkundige Tafelen)』(原著:ヨハン・アダム・クルムス)と実際の解剖所見を照合し、その精度に驚愕した。この体験が1774年(安永3年)の『解体新書』刊行につながった——日本初の本格的な西洋解剖学書だ。

ヴェサリウスが1543年に「見たままを記録する」という方法を確立してから230年。日本でも同じ「自分の目で確かめる」という革命が、翻訳という形で静かに起きていた。


まとめ:人体の地図を描くための代償

近代解剖学は、禁忌と需要のはざまで発展した。

ガレノスの権威に縛られた1400年間、ヴェサリウスの革命、死体をめぐる法の盲点、復活男たちの商売、そして殺人にまで至った需要——すべては「人体の内側を知りたい」という医学の欲求から派生した。

バーク&ヘア事件は医学の暗部を照らし出したが、その衝撃が1832年の解剖法を生み、近代的な医学教育の法的基盤を作った。歴史の皮肉は、バークの遺体が最後に「需要の正当な供給」の一例となったことだ。

医学が「見えないもの」に向き合うとき、その代償は常に社会が負ってきた。


筆者注

医学部の解剖実習は、通常1年かけてご遺体と向き合う。各班に一体のご遺体が割り当てられ、週に数回、数時間かけて全身を系統的に解剖していく。

実習テスト前には深夜まで残って自習することも多かった。解剖室に残るのは自分たちだけで、照明に照らされた解剖台が並ぶ空間で標本と向き合いながら神経や血管の走行を確認する——よく考えると、たくさんのご遺体に囲まれた深夜の空間で勉強しているなど、医学生くらいしか経験しないシチュエーションだと思う。

ご献体くださった方々とそのご家族があってこそ成立する実習であることは、当時も今も変わらない。バーク&ヘア事件の時代に比べれば、医学と社会の間に信頼の仕組みが築かれたとも言えるし、その仕組みは多くの人の善意に支えられている。


参考資料

  • Vesalius, A. (1543). De humani corporis fabrica libri septem. Basel: Johannes Oporinus.
  • Richardson, R. (1987). Death, Dissection and the Destitute. Routledge & Kegan Paul, London.
  • MacGregor, G. (1884). The History of Burke and Hare and of the Resurrectionist Times. Thomas D. Morison, Glasgow.
  • 杉田玄白(1774).『解体新書』(蘭学事始あわせ). 須原屋市兵衛, 江戸.

⚠️ 免責事項:本記事は医学史・医療史の教育・情報提供を目的としたものであり、特定の疾患の診断・治療・予防を目的とした医療アドバイスではありません。健康上の問題については、必ず医師・医療機関にご相談ください。

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