「この邦に生まれたるの不幸」——呉秀三が告発した座敷牢と、1972年まで続いた私宅監置

医学と社会の歴史

前回、華岡青洲の記事を書いたとき、参考資料の一つに古い本を挙げた。

呉秀三『華岡青洲先生及其外科』(1923年)。

青洲研究の基礎になった、いわば古典である。医学史の本を書いた人——そう思って通り過ぎそうになったのだが、調べてみて手が止まった。

この呉秀三(くれ・しゅうぞう)という人は、日本の精神医学を一から作り、座敷牢に閉じ込められていた人々の存在を国に突きつけた医師だった。

医学史の古典を書いた人物が、同時に日本の精神医療を根底から変えた人だった。今回は、その仕事の話をしたい。

※本記事では、当時の法令名・文献名として「精神病者」等の歴史的表記をそのまま用いる箇所があります。現在は用いられない表現ですが、史実を正確に記すためご了承ください。


1. 1900年、座敷牢は「合法」になった

まず、呉秀三が何と戦ったのかを押さえておきたい。

話は、ある大騒動から始まる。

明治16年(1883年)、旧相馬藩主の相馬誠胤(そうま・ともたね)が、精神の病を理由に自宅の座敷牢に閉じ込められた。これに対し、家臣だった錦織剛清(にしごり・たけきよ)が「殿様は病気ではない、財産を狙った一族の陰謀だ」と訴え出る。錦織は癲狂院から誠胤を連れ出すという実力行使にまで及び、騒動は10年以上も法廷で争われ、世間を騒がせ続けた。相馬事件である。

この事件が突きつけたのは、「人を精神病だと判断して閉じ込める手続きが、この国には何もない」という事実だった。誰が決めるのか、どこに届け出るのか、不当だったとき誰が救うのか——すべて空白だった。

そこで明治33年(1900年)、精神病者監護法という法律が制定される。

ここに、この物語の最初の皮肉がある。「不当に閉じ込められた」という告発から生まれた法律が、閉じ込めること自体を合法にしたのだ。この法律が定めたのは、ざっくり言えばこういう仕組みだ。

  • 精神障害のある人には「監護義務者」(配偶者や親族)を定める
  • 監護義務者は、行政庁の許可を得て、その人を自宅に監置できる
  • かかる費用は、原則として家族が負担する

つまり国がやったのは、治療の場を用意することではなく、家族に閉じ込める義務と許可を与えることだった。これが「私宅監置(してくかんち)」である。いわゆる座敷牢が、これによって法的な制度になった。

背景には、精神科病床が絶望的に足りないという事情があった。だが結果として生まれたのは、医療から完全に切り離された監禁である。鍵をかけるのは家族で、見るのも家族で、国は許可を出すだけだった。


2. 拘束具を焼いた男

呉秀三は慶応元年(1865年)、広島藩医・呉黄石の三男として江戸の広島藩邸に生まれた。母は蘭学者・箕作阮甫の長女。兄は統計学者の呉文聰。学問の家である。

1890年に帝国大学医科大学を卒業し、1897年からオーストリア・ドイツへ留学した。ウィーンでオーバーシュタイナーに神経病理学を学び、クラフト=エビング、クレペリン、ニッスルといった当時の精神医学の最前線に触れた。

ヨーロッパで彼が見たものの中に、非拘束(ノー・レストレイント)という思想があった。フランスのピネルが18世紀末に精神病者の鎖を解いたとされる逸話に始まり、イギリスのコノリーが19世紀半ばに拘束具を使わない治療を実践した、あの流れである。

1901年10月、呉は帰国して帝国大学教授兼巣鴨病院医長に就任する。そして——

着任から1か月ほどのうちに、病院にあった拘束具を焼き捨てた。

手錠、足錠、手革、足革、縛衣。それらを燃やし、使用を禁じ、患者の屋外運動を自由にし、看護の体制を入れ替えた。作業や遊びを治療に組み込む作業療法も、このとき日本に導入されている。

議論を尽くして段階的に、という話ではない。物理的に燃やして、後戻りできなくした。

付け加えておくと、拘束具を外すというのは単なる理念の問題ではない。縛らずに看るには、看る人数と、看る技術がいる。呉が看護の体制から手をつけ、作業療法という「することのある一日」を用意したのは、その代わりを置かなければ現場が回らないと分かっていたからだろう。拘束を減らすのは今も同じ構造の問題で、禁止するだけでは減らない。


3. 門下生15人を全国に送った、6年間の調査

病院は変えられた。だが病院の外には、もっと多くの人がいた。

呉は明治43年(1910年)から大正5年(1916年)にかけて、門下生15人を全国に派遣し、私宅監置の実態を一軒ずつ調べ上げた。

集まったのは——監置室365室、被監置者361人。

そして大正7年(1918年)、樫田五郎との共著で『精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察』が刊行される。

この報告書の特徴は、徹底して具体的だったことにある。実例を105例挙げ、写真66枚と図70点を添えた。監置室の寸法を測り、採光と換気を記録し、食事と排泄の状況を書き、監置に至った経緯を聞き取った。

そして数字が告げていたのは、こういうことだった。監置室の約6割が、1〜2坪。畳にして2〜4枚ほどの空間に、人が年単位で置かれていた。

報告書は監置室を「良好なもの」から「はなはだ不良なもの」まで段階に分けている。わざわざ分類したということは、その幅が実際に存在したということでもある。座敷の一角を仕切った比較的明るい部屋もあれば、母屋から離れた納屋同然の小屋もあった。採光のない部屋、床板の隙間から排泄する構造、面会がほとんどない状態——そうしたものが、一つずつ記録されている。

さらに報告書は、まだ監置されていない人の家庭の事例や、祈祷・滝行といった民間療法の実態にも紙幅を割いている。医療にたどり着けない人がどこに行き着くのかまで含めて、全体像を押さえようとしたことが分かる。

ここで注意しておきたいのは、これが純粋な学術調査ではなかったということだ。呉の狙いははっきりしていた。法律を変えるために、政治家を動かす資料を作る。だからこそ写真を入れ、図を入れ、分類し、統計にした。読んだ人間が言い逃れできない形にする——それが目的だった。


4. 「この邦に生まれたるの不幸」

その報告書の中に、日本の精神医療史でもっとも有名な一文がある。

我邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の外に、この邦に生れたるの不幸を重ぬるものと云ふべし

病という不幸の上に、この国に生まれたという不幸が重なっている。

自国の医療制度に対して、国立大学の教授が公の報告書でこう書いた。しかも1918年、大正期の日本でである。相当な覚悟がなければ出てこない言葉だと思う。

この一文は、現在も東京都立松沢病院に立つ呉の銅像に刻まれている。

報告書が出た翌年の大正8年(1919年)、精神病院法が成立した。道府県に公立精神病院の設置を認める法律である。呉の仕事が直接動かした成果だった。

ただし——正直に書いておくと、この法律の効果は限定的だった。設置は「できる」規定にとどまり、予算もつかず、公立病院はほとんど建たなかった。私宅監置は、なくならなかった。


5. そして、1972年まで続いていた

私宅監置の制度が法的に廃止されるのは、昭和25年(1950年)の精神衛生法である。呉の報告書から32年、呉の死から18年が経っていた。

だが、話はここで終わらない。

沖縄では、私宅監置が1972年まで続いていた。

戦後の沖縄はアメリカの統治下にあり、本土の法律が及ばなかった。1960年に沖縄独自の精神衛生法が作られて入院治療が進められたものの、精神科の病床も医師も、圧倒的に足りなかった。受け入れる場所がないまま監置だけをやめることはできず、制度は容認され続けた。

本土では禁じられていたものが、同じ日本で、22年間長く残っていた。1972年の本土復帰まで。

これは「昔の話」として片付けられる距離にない。復帰は50年ほど前のことで、当時を知る人は健在である。近年、沖縄では監置小屋の遺構を保存しようという動きや、記録映画の制作が続いている。

この経緯で考えさせられるのは、制度の廃止と、現実の解消は別物だということだ。1950年に本土で私宅監置が禁じられたのは、人権意識が一夜で変わったからというより、代わりに人を受け入れる場所が用意できたからという面が大きい。沖縄でそれができなかったのは、医療資源が足りなかったからだ。

呉が1918年に突きつけたのも、結局は同じ構造だった。閉じ込めるなと言うだけでは足りない。行き先を作らないかぎり、鍵は開かない。


6. 歌人と、医学史と——呉秀三が遺したもの

最後に、呉秀三という人の広さについて触れておきたい。

彼の門下からは、個性的な人材が次々に出た。森田療法を創始した森田正馬。躁うつ病の病前性格として「執着気質」を提唱した下田光造。松沢病院で本格的な作業療法を展開した加藤普佐次郎。

そして——歌人の斎藤茂吉も、呉の門下生である。『赤光』の歌人は精神科医であり、青山脳病院の院長でもあった。

さらに呉は、日本における医学史研究の制度そのものを作った人でもある。1927年に日本医史学会を創設し、初代理事長を務めた。

著作を並べてみると、その射程がよく分かる。

  • 『シーボルト 其生涯及び功業』(1896年)——シーボルト研究の基礎
  • 『箕作阮甫』(1914年)——祖父にあたる蘭学者の評伝
  • 『吉益東洞先生』(1918年)——江戸期の漢方医
  • 『華岡青洲先生及其外科』(1923年)——青洲研究の古典

前回の記事で私が参考にした本と、今回の『私宅監置ノ實況』は、同じ一人の人間が書いている。そして松木明知の青洲論文が載った『日本医史学雑誌』は、呉が創設した学会の機関誌である。

医学史を遡っていくと、どこかで必ずこの人に行き当たる——そういう存在なのだ。


まとめ:記録することが、変えることだった

呉秀三がやったことを並べると、驚くほど一貫している。

拘束具を燃やし、全国の座敷牢を測り、写真に撮り、統計にまとめ、そして「この邦に生まれたるの不幸」と書いた。さらに過去の医師たちの仕事を調べて書き残し、それを研究する学会まで作った。

彼の武器は、終始記録だった。

ロボトミーがノーベル賞を受け、やがて禁止されたように、精神医療の歴史には振り返って重いものが多い。私宅監置もその一つで、しかも「過去」と言い切るには新しすぎる。

それでも、あの報告書が残ったから、私たちは365室の寸法を知り、1〜2坪という数字を知っている。記録されなかったことは、なかったことになる。呉秀三が写真66枚と図70点を添えた理由は、たぶんそこにある。


筆者注

道を歩いていると、「これは座敷牢だったのではないか」と思しき建物や区画が、ふと目に入ることがある。古い家の離れや、不自然に閉ざされた一画。確かめたわけではないので断定はできないが、そういうものを見かける程度には、この話は遠い過去ではない。

拘束に尽きるような医療が不適切であることは、もちろんだ。ただ、患者の尊厳を保ちながら、同時に働く側の安全も守るというのは、なかなか難しいのが現実でもある。理念だけで割り切れる問題ではない。

正直に言えば、病院にはネット上で公にはできないようなエピソードが数多くある。

そのため、今回の筆者注はこのくらいにしておく。


参考資料

  • 呉秀三・樫田五郎(1918)『精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察』/金川英雄訳・解説(2012)医学書院.
  • 日本精神神経学会「日本精神医学の歩み」(私宅監置と拘束具/呉秀三の生涯とその門下生)
  • 呉秀三(1923)『華岡青洲先生及其外科』吐鳳堂書店.
  • 東京都立松沢病院 資料.

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⚠️ 免責事項:本記事は医学史・医療史の教育・情報提供を目的としたものであり、特定の疾患の診断・治療・予防を目的とした医療アドバイスではありません。健康上の問題については、必ず医師・医療機関にご相談ください。

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